四日市公害の歴史を学び、語り継ぐために、公害学習はどのようにすすめられてきたのか、公害学習をどのようにすすめていくのかが、四日市環境学習センターで話し合われました。

◎ 四日市再生「公害市民塾」「語り部」からの話
  この交流会の趣旨説明
◎ 四日市公害学習実践校からの報告
  四日市市立海蔵小学校・・・ビデオ学習と現地学習
  四日市市立中部西小学校・・・地域の方と語り部からの聞き取り学習
  津市立波瀬小学校・・・「四日市公害と人権」と語り部からの聞き取り
  四日市市立富田小学校・・・「四日市公害と人権」と写真、語り部からの聞き取り、ストローを使った体験活動

◎ 意見交換会

  どの小学校も語り部の方々の生き様に学び、子どもたちが自分を振り返る学習を大切にしていました。また、四日市公害学習をすることで、子どもたちが元気になっていく様子も報告されました。参加された方の中には、磯津出身の方もおられ、当時の様子と自分のことを話され、とても興味深かったです。
  意見交流の中で、たくさんの学校で「四日市公害と人権」(副読本)が活用され、公害学習に役立っていたことは、 うれしい限りでした。

初夏の陽射しに覆われた昼下がり、ふと思い立って海辺に向かいました。実は僕は現住所「鈴鹿市」ですから、鼓が浦海岸が地元なわけです。若松・千代崎・鼓が浦・磯山と伸びる海岸線は砂浜のまま生きていて、夏は海水浴でにぎわうわけです。

目の前に広がる砂浜と海原は言いようのない開放感を与えてくれます。潮の香りのなんと懐かしいことでしょうか。さすがに海水の透明度は一級品ではありませんが、渚を敷き詰めた貝殻は少年時代の感触とちっとも変わっていないのです。浜昼顔も咲きその隣には地元小中学校の植樹も行われていて、浜辺を守ろうという志が継承されているのげうれしく思われます。

やはり 海には砂浜がよく似合う そんな思いを新たにしたひと時でした。(写真クリックしてください)

語り部活動の中で、最近配布している「四日市公害学習案内」を随時掲載していきます。今までのシリーズの中から、抜粋したり加筆したりしたものです。すべてを掲載した時点で、PDF形式のファイルをダウンロードできるようにします。

塩浜小学校と公害

 塩浜小学校は、公害地域の三浜、納屋、東・西橋北、海蔵、羽津小学校と、公害で悩まされた学校ですが、なかでも塩浜小学校は公害被害のひどかった学校でした。
第1コンビナートの工場は海軍燃料廠のあった所で、塩浜小学校も海燃の工作室・集会室に使われていた所です。
公害がひどくなり、悪臭やガス濃度が高いときに全校児童を避難させる場所にと、講堂と体育館を兼ねた建物に冷房のついた空気清浄機を備えました。1967年(昭42)のことです。(現在の体育館は建て替えられていて、空気清浄機はついていません)
この年の9月に、塩浜小学校区で卒業生でもある磯津の公害認定患者(学校隣の県立塩浜病院入院中)の野田之一さんたち9人が原告となっての「公害訴訟」がはじまっています。

語り部活動の中で、最近配布している四日市公害「学習案内」を随時掲載していきます。今までのシリーズの中から、抜粋したり加筆したりしたものです。すべてを掲載した時点で、PDF形式のファイルをダウンロードできるようにします。

中村 留次郎さんの話

(1969年9月、磯津の中村家で。この日、風向きも体の調子もよいのでと、塩浜病院から一時抜け出して、奥さんと、魚用の網を編む内職をしながら、話してくれた。)

36年(1961年)に突然苦しい発作がきてね(当時56歳)。その時、磯津で60人ばか発作をおこしてね。重い人はいきなり、病院へ走ったですね。
私もはじめ市立病院へ行ってさ。家内をつれてって毎日介抱させてさ。こんなものなおると思っていたら、内科の先生が「おそらく治りませんなあ・・・」って言い出したやろ、治らんってどういうわけや言うたら、「今、このぜんそくを治す薬も注射もない。ただ発作をおさえるだけや」と、こう言わした。これは、弱ったもんやなとおもっとったが、いちどき激しい発作は押さえてもらって2ヶ月ばかりで退院してきました。
37年(1962年)からは塩浜病院(三重県立大学医学部付属)できびしい薬をもらってね。1週間1200円ずつ医療費を払ってね。だいたい1年と2ヶ月ばかり通院して過ごしてきたかなあ。
39年(1964年)の1月がきたら、まあきびしい発作が再三くるので、中山さん(開業医)も、頼むで入院してくださいと言うし、子どもも、これじゃあ周囲がもたないというので塩浜病院へ入院した。
金があるもの、縁故関係のあるものは遠いところへ行ってね。半年か1年と居ってくると、居る間は、絶対発作は起こらないし、体も回復してピチピチしてきますけど、また磯津へくると、10日ももちませんね。
とにかくあらゆること、しゃばの人がいいということはやりましたよ。断食もしたし、座禅も組んだし、人間の焼いた骨がいいというので、それも1ヶ月のんだしさ・・・・なにしたところで治らない。

くさい魚とぜんそく 環境破壊の四日市公害

語り部活動の中で、最近配布している「四日市公害学習案内」を随時掲載していきます。今までのシリーズの中から、抜粋したり加筆したりしたものです。すべてを掲載した時点で、PDF形式のファイルをダウンロードできるようにします。

{tab=公害発生源}
1、四日市公害の主な発生源は、火力発電と石油化学コンピナートの工場群です。
2、塩浜の旧海軍燃料廠跡地に建設された第1コンビナートが本格稼動したのは、心臓部となる三菱油化(現三菱化学)が1959年(昭和34年)6月操業開始からです。
3、その後、1963年(昭38)6月に第2コンビナート、1972年(昭47)2月に第3コンビナートがつくられ、日本で最初の本格的なコンビナートとなりました。
{tab=最初の公害被害}
4、最初に公害被害をうけたのはくさい魚で、伊勢湾の魚は高級魚として出荷されていましたが、1960年(昭35)3月に東京築地の魚市場が「伊勢湾の魚は油くさいので厳重検査をする」との通告を出しました。四日市付近で獲れる魚は100パーセントくさいというデータも出て、漁師たちは大変困りました。
5、くさい魚で大打撃を受けたのは、磯津の漁師さんたちでした。塩浜地区磯津は漁師町で400人ほどの漁師がいました。
6、第1コンピナートとは鈴鹿川をへだてて存在する磯津は、くさい魚のほかに、1961年夏頃に発作で苦しむ人たちが現れ、最初ぱ塩浜ぜんそぐと呼ぱれていました。
7、工場が出来るまではこんな病気はなかった、これは工場が悪いガスを出しているに相違ないと工場を廻って悪いガスを出さないようにと言いましたが、どの工場も「うちではない」と認めませんでした。県、市も同じでした。
{tab=四日市ぜんそく訴訟}
8、1966年(昭41)7月、公害認定患者の木平卯三郎さん(76)が自殺。翌年の6月にも、大谷一彦さん(60)が自殺、公害がひどくなる一方で有効な公害対策がない中、このままでは死ぬしかないのかと、弁護士や支援者のはたらきかけもあり、県立塩浜病院に入院中の磯津の9人が原告となり、隣接する塩浜第1コンビナート6社を被告にした「四日市ぜんそく公害訴訟」をこの年の9月1日におこしました。裁判は津地方裁判所四日市支部でおこなわれ、4年10ヶ月の審理をへて1972年7月24日、「原告患者側勝訴判決」(米本清裁判長)があり、国・県は規制強化、新な法・規制をつくるなどの公害対策がすすみました。この裁判をおこさなかったら、市民はもっと長い間ひどい苦しみを強いられたと思います。
9、ぜんそくをひきおこすSO2(亜硫酸ガス)は、基準が強められたのと、ガスの排出量に応じてお金を出すこととか、排煙脱硫装置取り付けもあり、排出量は減ったり、濃度が薄くなったりで、よくなってきています。大気汚染はこのほかにも地球温暖化ガスの排出などもあり、無公害にはなっていません。

{tab=四日市海上保安部}
10、くさい魚を発生させた汚れた工場排水は、1969年12月、公害取締りの役所ではなく、海の安全を守る役目の四日市海上保安部が、1日20万トンの廃硫酸を四日市港にたれ流ししていた石原産業四日市工場を検挙(その時点で1億トン)、刑事事件になり津地方裁判所で10年におよぷ裁判で被告石原産業は有罪となりました。ぜんそく裁判同様、国・県は規制強化と新たな法律をつくるなどして、各工場の排水対策をすすめ、くさい魚の発生や奇形魚の発生はなくなりましたが、魚の種類も量も激減しています。磯津で400人ほどいた漁師もいまでは100人ほどに、しかも高齢化して、暗い状況です。
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{tab=患者の救済と実態}
11、公害病患者の救済は、1965年(昭40)5月から、四日市市単独の公害認定患者数済の認定制度がはじまり、ぜんそく裁判後は国の制度になり、1988年(昭63)3月から認定制度がなくなるまでの間に2312人が認定され、2006年5月現在512人がいます。空気がきれいになった分、発作の回数がへるなど良くなっているとはいえ、なかには、酸素製造機から各部屋に酸素チューブをはりめぐらしたり、ポケット吸入器をおいたりして発作に備えるとか、酸素ボンベを何本と使用しなくては呼吸できないなどの患者もいます。これまで分かっている限りでは自殺された患者は5人。小学生は4人、中学生は1人がぜんそく発作で亡くなっています。

{tab=公害は差別}
12、ぜんそくはどこにもある病気で四日市特有の病気ではないと、医学ではなっているようですが、四日市ぜんそくは、四日市を離れきれいな空気の所に行けぱぜんそく発作は起きないという特性があります。だったら、四日市を離れればいいということになりますが、磯津の漁師は海辺の磯津に住んでいて成り立つので疎開出来ません。磯津以外でも、それぞれの居住地で生活が成り立っているので疎開はできません。このことと、発病も乳幼児と高齢者に多いことから、公害は差別であり人権問題でもあるといえます。実際にお金持ちに公害患者はいないようです。

{tab=コンクリートの海岸}
13、四日市公害は、くさい魚と四日市ぜんそくのほかに、自然と環境破壊があります。四日市は海辺の町ですが、砂浜の海岸はなく、コンクリートで固められた海岸があるだけで、海水浴場はありません。「コンピナートの工場がくれば四日市は発展する」と市長が言い、市民はそれはよいことだと歓迎しました。市が発展すれば市民も発展すると思ったからですが、そうはなりませんでした。
 わずかに砂浜の残る磯津には、海辺の町特有の樹齢何十年といった松林はなく、街中にも屋根より高い松はありません。この夏も四日市の街中で騒がしい蝉の鳴き声もなく静かな磯津です。

{tab=克服したとはいえない}
14、四日市公害「終結」「克服」を言う人は、被害者側の人ではありません。四日市公害原点の地・磯津が、かっての賑わいをとりもどしたときにはじめて言える言葉です。
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