澤井余志郎さんの生きざまから学ぶ

1.実践交流会に参加して

どの小学校も語り部の方々の生き様に学び、子どもたちが自分を振り返る学習を大切にしていました。また、四日市公害学習をすることで、子どもたちが元気に なっていく様子も報告されました。参加された方の中には、磯津出身の方もおられ、当時の様子と自分のことを話され、とても興味深かったです。交流の中で、多くの学校が「四日市公害と人権」(副読本)を活用していることがわかりました。副読本が公害学習に役立っていたことは、うれしい限りでした。

塩浜小学校を訪れる現地学習は、総合的な学習の時間が位置づけられる頃から、特に、盛んになってきたと思います。そして、現在では、市民塾の語り部の方々から聞き取り学習を行うというスタイルがすっかりと定着しています。  

 

 
 

今回の実践報告を聞きながら、改めて、「四日市公害から学ぶ」ことを核に据えた学習は,私たちの生活のあり方や社会のあり方を見直し,子どもたちや教師自身の変容も可能にする「学び」になりうるものだと感じました。報告をした学校の実践は、被害者の視点に立ち、公害被害の事実を自分のものとする学びで、私もこんな実践をしたいと思いました。

2.実践を振り返って

当日の交流会では、うまく実践を報告できない部分もありました。もう一度、自分の実践を振り返りたいと思います。
私が担任をした学年の子どもたちは、人の話をしっかりと聞ける子どもたちでした。だから、この子たちなら、四日市公害のことを心に受け止めてくれるだろうと担任間で話し合いました。四日市公害に長年たずさわってきた語り部の方々に出会わせること自体が、この子たちにとてもいい体験になるとも話し合いました。しかし、授業時数の関係から、短時間で学習を構築する必要もあり、語り部の方々に出会わせる前に、どのように学習を積んでいくのかを工夫する必要を感じていました。
そこで、もう一度、市民塾の資料とこれまでの実践を振り返り、何を学習するべきかを考えました。また、市民塾の若手が出しているミニコミ誌「なたね通信」からの提言を元に授業の目標を絞ってみました。特に、裁判の成果と残され た現在の課題を結びつけることをねらいとしました。
時間数が限られていたので、子ども向けに作られた数少ないビデオ「四日市公害の教訓を未来に」と公害患者の今の様子もわかる「変わりゆく海」を活用しました。また、海蔵小学校には、2人の四日市ぜんそくによる犠牲者がいることも子どもたちに伝えました。この時、それまで静かにビデオを観ていた子どもたちの中からざわめきがわき起こりました。
その後、教室で、裁判の成果「公害患者を助けるきまり」「工場を建てるときのきまり」「けむりに対するきまり」等と残された課題「残された患者さんたち」「張り巡らされたパイプラインと地震」を学習しました。5年生の時に学習した阪神大震災のことと結びつけることができました。
最後に、子どもたちは、塩浜小学校での学習を行い、澤井さん、山本さんからの話を聞いたり、質問をしたりして四日市公害のことをしっかりと受け止めようとしていました。子どもたちの真剣な表情を見ていると、語り部の方々との出会って、本当によかったと思いました。子どもたちは、感想の中で、次のように感じたり、考えたりしていました。

  • ぜん息は四日市からはなれれば発作は起きないと聞いて、塩浜からはなれて暮らせばいいと思いました。でもそこで簡単になごりのあるふるさとを捨てることな どできないでしょう。しかしそこで立ち上がったのが野田さんたちでした。野田さんたちが勇気を出して裁判を起こして裁判に勝ってくれなかったら、今の四日 市の人々は大変苦しんでいたと思います。
  • 四日市ぜんそくのことが、忘れられようとしているのは残念です。忘れないためには、教科書にもう少し詳しく載せることやプリントを作って、全小学校に配布するか先生がプリントを読んだりして説明するようにしたらいいと思います。

学習のねらいを絞ったつもりでしたが、絞りきれていなかったかなという思いがあります。野田さんや澤井さんたちの思いを伝えきれていないのではないかという不安があり、教室での授業では、つい、あれもこれもと話しすぎたと感じています。限られた時間の中で、何を大切にするのかをもっと吟味すべきだったと反省しています。

3.今後の実戦に向けて

私の息子がサッカーの試合に遠征に行ったとき、「四日市ぜんそくの四日市から来た!」と相手チームの子どもに言われ、何も言い返すことができなかったようです。私も同じようなことを言われたことがあります。まさか自分の息子も同じようなことを言われるとは思いもしませんでした。四日市公害のことをしっかりと伝えてこなかったことが、この言葉に対して何も言えない状況を作っているのです。
公害を記録し続けてきた澤井さんが、10年前、「塩浜小学校は、磯津とともに、四日市公害原点の地であり、公害教育・学習の聖地である。現在使われている、四日市市教育委員会の、小学校3,4年社会『のびゆく四日市』に、公害裁判の記述はない。市教委の事実認識・歴史認識はまるでなっていない。あきれ果てるとともに怒りさえおぼえる。」と強く訴えていました。
私たちは、四日市公害の歴史と教訓をしっかりと伝えてこなかったという事実をしっかりと受け止めなければなりません。

「記録を続けるわけ」
四日市公害のことを調べたい、学習したい、研究したいと様々な方がまず訪れるのは、澤井さんのところです。こんなことを調べたい、これについてはどうですか、このとき患者さんはどんな気持ちだったのでしょうかなど、澤井さんに尋ねると、膨大な資料の中から、これという資料を抜き出して説明していただけます。40年以上にわたって、ずっと、四日市公害を「記録」し続けた澤井さんの指は、曲がってしまい文字を書くのがつらくなってしまったそうです。現在は、パソコンの使い方を覚え、ワープロを使って「記録」し続けています。

澤井さんに、「なぜ記録をし続けるのですか?」とたずねると、その答えのひとつとして、魯迅の文章を例に挙げて「人間は忘れっぽいものです。そのために、前人の過ちを再び繰り返す、そうならないためだ」と言われます。実際に、四日市では、裁判後にも、日本で最大級の不法投棄事件やフェロシルト事件などさまざまな過ちが繰り返されています。忘れないための企業研修や学習がしっかりとなされていないし、その有効な機会もほとんどありません。4大公害の地で公害資料館がないのは、四日市だけです。だから、澤井さんは、記録し続けるとともに、企業や市民が学習する場の必要性も訴えています。最近、公害裁判に訴えられた会社が報告義務のある工場の排出物のデータを改ざんしたことがわかりました。市民塾と話し合いをしたときに、会社側は「裁判のことは知らないしそれらの資料がどこにあるのかも知らない」という信じられないことを話されました。

「記録」公害発行
澤井さんは、四日市公害について、「有り余るほどの調査・研究、報告はあり被告企業の加害を明らかにしているが、公害裁判が進む中で、何か物足りないものを感じていた。」そうです。それは、「もう殺してくれ,ってこんなに苦しむんだったら死んだほうがましだ、とぜんそく発作の時にうめく患者や、漁ができないばっかりに陸での土方仕事に行く漁師、そういった公害被害者の”人間”の記録」でした。
そこで、澤井さんは、ガリ版文集・記録「公害」を発行することを思いつきます。公害反対運動に関わる以前に澤井さんは、生活記録運動をしておられ、この経験があったから「記録することを通して、公害との戦いに参加することが最も私に適したやり方」で「ひとりの市民としての自主的な反公害への参加」と考えたそうです。そして、「公害を記録し、公害患者や漁師の話を聞き、そのテープを起こしてガリ版文集として出すことは、一人ででもできる運動である」と自分の活動進めていきます。「一人でやっても、読まれ、知られることによって、少なくとも反公害にとって10人以上の力になるだろうと思ったし、助力になる」と仕事が終わってから磯津に通い始めます。
こうしてはじめた公害・生活記録は、公害裁判のなかで、原告患者側の準備書面でも用いらることとなりました。そして、ガリ版文集・記録「公害」は証拠書類にもなったのでした。

逆境を糧に
しかし、この活動は当初、なかなか順調にはいきませんでした。「選挙のために、私たちを利用しているだけではないか」という患者さんにはなかなか信用されず、わかってもらえるまで磯津通いが続きます。『記録「公害」』に患者さんや漁師さんの生の話が掲載されたのは、第1号(1968.7.5)が発行されてから8ヵ月後の第6号(1969.4.1)の時でした。

実は、ガリ版文集を作成し始める前、澤井さんは、「この公害反対の活動を辞めろ」と勤め先から突きつけられています。地区労に勤めていた澤井さんは、労組の役員に呼び出され、「お前の給料は誰が出しているか、おれたちの組合費からだろう。雇い主の意向に(第三コンビナート建設)さからう者は辞めてもらうしかない。お前がやめるか、うちが地区労を脱退するか。お前が決めろ。」と迫られます。「どちらも、私には返事のしようがないことですが、コンビナート労組の思いもよくわかるので、これからは、自分なりに気をつけるようにするとしか返事のしようがありません。」と答えて引き下がったそうです。これがきっかけで、表面だって反公害運動をすることができなくなり、名前を出さなくても活動を続けるために、ペンネーム「公害を記録する会」と名乗りガリ版文集を作ることにしたのです。
そして、澤井さんは、この逆境を逆手にとり「助っ人と黒衣」に徹することで、以降の活動を仲間と共に生かしていきます。
自分にとって非常に不利となるようなことであっても、それを乗り越えるための柔軟な考え方と、信念を持って活動を続けることの大切さを学ぶことができます。

裁判への支援と強力な助っ人登場

裁判が始まると、原告患者の皆さんは怒りをあらわにします。それは、被告側が「規制を守り法律を遵守して操業をしていたので、公害は出していません。」と真っ向から原告側の訴えに反対します。裁判が進むと「当社が磯津の空気を汚しているというのならば、当社の排出物中の何が、いつ、どれくらい磯津に届いたのか言ってごらんなさい。」と反論してきます。
そして、患者さんの苦しい思いや怒りよりも、数値や理論ばかりが議論される裁判に「なんで、一日中すわっとらんならんのや。被告の話をきいとると、煙はだしとらんとか、あーだ、こーだ、言うとる。いっぺん家へ来て、窓を開けたら、すぐ分かることや。家で裁判をやれ!」と裁判はやめだと言い出しました。そのときに、支援していた澤井さんらが原告患者さんの話をじっくりと聞き、なんとか説得したそうです。
5年という長い間の裁判の中で、9人の原告のうち2人がぜんそくによって他界してしまいました。被告側の言い分をじっと聞いているのに耐えられず、どこにも向けようのない怒りとして、こんなことを言ったそうです。
澤井さんは、裁判中にも磯津に通い続け、患者さんや漁師さんたちの声を聞き取ります。そして、録音したテープを起こし、ガリ版文集・記録「公害」を作成し、裁判の様子を伝え、磯津のみなさんに配布することを続けていきます。
原告患者の藤田さんは、原告最終弁論を裁判所で述べることができませんでした。体調が悪く、空気清浄室から亜硫酸ガスが流れる外へ出ることができなかったのでした。自分の気持ちをどうしても言いたいという藤田さんの思いを届けることにした澤井さんは、病床で藤田さんの声を録音し、弁護士にテープを預け、裁判所で藤田さんの声を流したのでした。
5年という長い年月がかかりましたが、なんとか裁判を最後まで行うことができたのは、原告の言い分をしっかりと聞き相談に乗ってきた澤井さんの存在があったからこそです。
 
1970年の夏、澤井さんは、名古屋大学工学部の吉村さんという強力な助っ人に出会います。この人がいなければ、「反公害に強いインパクトを与える運動を作り上げることはできなかった」と言わしめる人です。弁護団にも、企業側が出してくる資料や数値などの証拠も、一つひとつ分析して、反論したものを提出し、吉村さんは、毎回もたれる弁護団会議に出席するようになったそうです。
さらに、澤井さんは吉村さんと協力して、裁判の支援だけではなく、磯津の子どもや母親たちへの公害学習を行ったり、第2コンビナート近くにある橋北地区の患者さんの反対運動を手伝ったりとさまざまな支援を行っていきます。
 

四日市公害と戦う市民兵の会

澤井さんと吉村さんは、四日市公害と戦う市民兵の会を組織し、患者や被害者の方に対する支援を強力に推し進めていきます。市民兵の会は、ユニークな組織体形を取り、学生や教員、工場の労働者などさまざまな構成員が、月2回の例会を行い、それぞれがテーマを持って活動していました。裁判の様子をもっと一般市民に知ってもらう必要があると、月刊ミニコミ誌「公害トマレ」を発行したのです。そこに書かれている内容は、わかりにくい科学裁判への解説はもちろん、原告患者さんの声、裁判には届かない認定患者の声やぜんそくの子を持つ母親の苦しい気持ちを綴ります。また、「苦しみをこえて患者は生きる」や工場労働者からの葛藤や告発、決意を掲載した「コンビナート労働者の眼」などをシリーズとして掲載し、公害被害者の声を届けることを大切にします。
 
「公害トマレ」を読んだ患者さんたちは、大いに勇気づけられました。購読している人たちからのメッセージが届けられるようになりました。澤井さんらは、公害をなくそうと思う人たちが確実に増えていくことに、手応えを感じていましたが、なかなか本当の反公害の大きなうねりを作り出せないという焦燥もありました。
「医者もタダ、医療手当までもらえていいなあ、と患者に向かって言う人がある。患者の苦しみを知らないからだ。」「夜中の発作で朝が起きられないので、学校を休ませるとずる休みだといわれる」など、患者の苦しみはもちろん、その家族にも公害による被害がのしかかってきていました。市民の大多数は、被害の実態が非常に見えにくい状態だったのかもしれません。しかし、そのことを知らない、知ろうとしない行政、企業、市民に対して、澤井さんたちは、どのように働きかけるべきか、常に自分たちの運動を振り返りながら議論してきます。公害トマレの中で、吉村さんは「被害者が、その苦しさなしに、加害企業を謝罪させられないという社会の仕組みには、怨みを持たざるを得ない。ゆえなく被害を受けた人間が、なにゆえに、その被害を除くのに、それ以上の苦労をしなければならないのだろうか。われわれを、助っ人たらしめている大義は、おそらく、このような社会の仕組みを変えることであろう。展望は、まだないのだが・・・」と論じています。四日市公害が被害者と加害者間の問題であると考えている限り、公害が現在進行形の四日市では、形を変えた公害がまた起こるのではないでしょうか。公害の事実と教訓を伝えようとはせず、「公害の負のイメージ」を払拭することばかりに躍起になっていると「公害のあやまち」は繰り返されることになります。
 
「判決がはじまりや」野田メッセージ
判決が近づいてきたある日、野田さんは次のように語っています。
「判決がこれは始まりやと思うのさ。判決がおりた時点でさ、いかにこれからの四日市をようしていくかという運動をね、心機一転て言っていいか、判決をもとにしてさね、運動を進めていかないかん。」
野田さんたち公害ぜんそく患者は、このままでは死ぬのを待つしかない、負けてもともと、あとは裁判しかないと、生きるか死ぬかと追いつめられた末の切羽詰まった決断だったのです。四日市公害裁判は、9人の健康被害に対して損害賠償を求めたものです。勝訴しても公害発生源をなくすものではありません。この時は、こういう形での訴えしかできなかったのです。
野田さんは、第45回公判の原告本人尋問で「原告になったのは、何より生まれたときの環境に戻してほしかったからです。損得でやっている裁判ではない、住みよい世の中にしたいのです。裁判が終わっても公害はなくなりません。まず青空を返してほしいのです。」と強く訴えています。
そして、原告側の勝訴という熱気が渦巻く中、野田さんは支援者に向かって「裁判では勝ちましたがこれで公害がなくなるわけではありません、なくなったときに“ありがとう”の挨拶をさせてもらいます」と言われます。
澤井さんは野田さんのこの挨拶を「亜硫酸ガスは出しているが、公害は出していないといい続けてきた工場が、加害者であると判決で明らかになった、これからが本当の公害反対、青空をとりもどす運動がやっていける、支援者のみなさんがんばりましょう、ありがとうのあいさつができるようにしてください」と受け取ったのです。

勝訴の結果として
    ▽硫黄酸化物の総量規制
    ▽国が、公害健康被害補償法施行(全国41の大気汚染地区)
    ▽工場立地法制定(20~25%の緑地帯確保)
などが行政の責任として行われていきます。
澤井さんは、「公害裁判を起こさなかったら、裁判に敗訴していたら、四日市のみならず、全国の大気汚染地域の人々は(公害列島)は、もっともっと、ひどい目に、長いこと、痛みつけられた。」と、この勝訴を評価しています。
この後、二次訴訟に向けての準備や第2コンビナートの青空要求運動、コンビナートの拡大を阻止する運動がさらに活発になっていくはずでした。
 
反動
澤井さんは、「四日市の戦後<判決後>は野田さんの判決の日のあいさつをもって始まらなければならないのに、いったい何人がこの訴えを受け入れたか、残念ながら、ごく少数にとどまった」とのちに回想しています。

・昭石の拡大
  公害裁判被告企業の昭和四日市石油は、判決時に完成していた80,000バーレルの増設プランとは、住民側の了解なしには運転しないと誓約していた。しかし、知事、市長などを磯津公民館へ連れてきて、吉田克巳教授に、運転しても何ら被害を及ぼさないと説明させ、運転を開始した。
・第3コンビナートへの企業誘致
  四日市市議会は、霞が第三次埋め立て地には「石油関連企業は立地させないの」との付帯決議を付けて可決した。しかし、1,980年(昭和55年)3月議会で、「その埋め立て地に中部電力のLNG(液化天然ガス)、大協石油のLPG(液化石油ガス)タンク建造を認めてほしい」との港管理組合の申し入れを受け、決議を解除してしまった。
・公健法解除
  公害健康被害に補償制度を廃止する件について、三重県知事と楠町長、四日市市長は、同意する旨の意見書を中曽根首相に提出した。指定41地域の51自治体首長のうち同意したのは、四日市市を入れて6首長のみ。国会で可決され、1,988年(昭和63年)3月1日より、新規に患者として認定されることはなくなった。
・塩浜病院の移転
  公害患者たちの駆け込み寺となっていた三重県立塩浜病院が老朽化、対象人口減少などを理由にとり壊し、5キロほど離れた山の手に新たに県立病院を作るとして、1,994年(平成6年)9月30日に閉鎖。

これらの反動に対して、澤井さんは、判決10年、15年、20年といった判決があった7月24日には、集会を企画したり学習会を企画したりして、四日市公害を忘れないようにと訴えています。
澤井さんは、「“勝訴ばんざい”の余韻が消えていくのとおなじように、運動は消えていったり、反動の動きが現れた」と振り返っています。何よりも、四日市公害の教訓を生かそうとしない行政や企業の姿勢を非常に残念に思われています。

もう続けられない?
判決20年目の1992年3月、吉村さんは名大を退め、東京理科大学へ行くことになり、四日市を去ることになったそうです。
澤井さんは、「『公害の澤井』だとか言われているが、吉村さんという強い後楯があっての“助っ人”であったわけだし、その後楯がなくなっては、もう助っ人もできないと真剣にそう思い、これで助っ人は廃業しなければと思った」そうです。そして、挨拶の中で「先程から皆さん、吉村先生ということで言われています。私は吉村さんとはもう20年余のおつきあいですが、吉村さんと呼んでも、吉村先生とお呼びしたことがありません。だけど過去20年余の間、吉村さんが居てこそ私もなんとかやってこれたし、公害で苦しむ住民・患者の人たちのよき助言者であったことを考えると、吉村さんが居なくなってはどうしようもないので、助っ人廃業宣言をしようかと思いながら来ました。それにつけても、吉村さんと呼んできましたが吉村さんこそ本当に吉村先生と呼んでいい人だなと、今しみじみ思っています。」と力なく言われました。
そんな澤井さんが、なぜ、今でも語り部として四日市公害の教訓を後世に伝えようとしているのでしょうか。
澤井さんは、吉村さんが東京へ行ったあと、気が抜けたようになっていたそうですが、ある公害患者さんに「わしらを利用して、公害で有名になった人がようけ居るが、そういう衆はいまどうしているんやな。わしらは利用されたおかげで、公害裁判にも勝てたし、公害もようなってきたでありがたいと思っとる。そやけどやで、公害認定制度を廃止するとか、塩浜病院をなくしてしまうとか、わしらが本当に困ってたときに、誰か運動してくれた人が居るか。もうわしらは利用価値がないで知らんっていうわけか。いまでは、わしらを利用して有名になった人が、わしらを苦しめる反対側の人に利用されて居る人も居るが、どうなっとんのや・・。」と言われ、そのことがいつも頭からはなれないと言います。

道しるべ
もう続けられないと思った澤井さんは、この公害患者さんの言葉をきっかけとして、自分がしてきた活動を振り返ります。澤井さんの活動の中心となっていることは、「記録する」ということです。「記録」のはじまりは、当時澤井さんが勤めていた紡績工場での生活を記録する会でした。この活動を通して、澤井さんは、「自分自身が育てられ、今の自分が存在しているという自負を持つことができた」と振り返っています。だから、「四日市の大きな課題である公害を記録する反公害の運動に参加していった」のです。「ひとりでやりはじめてもやがては、十人以上の力になる」という信念のもとに、記録「公害」を綴っていきます。
そして、吉村さんと出会い、四日市公害と市民兵の会を作り、さらに仲間を増やしていきます。そこで10人力以上の力を発揮しながら、被害者の地平に立った活動を行っていきます。助っ人として、仲間とともに活動してきた市民兵の取り組みに対しても、澤井さんは誇りを持っています。
澤井さんは、これまで行ってきたことが、自分にとっての道しるべになっていることに気づいていきます。くじけそうになっても自分を振り返ったときに、今までの自分自身が背中を押してくれたのではないでしょうか。記録してきたことを読み返し、その中に自分がとるべき行動が書かれていたのでしょう。自分の過去に誇りを持てる人は、何度挫折しそうになってもまた立ち上がることができるのです。

公害判決25年のとき、澤井さんは仲間とともに、四日市再生「公害市民塾」を立ち上げます。そして、新たに、「公害市民塾 瓦版」を発行していきます。このときから、新しく加わった仲間が、澤井さんの「記録」をもっとたくさんの人に知ってもらうべきだとHPを作ります。また、「公害を直接知らない自分のような立場のものが、これから先も子どもたちに四日市公害を語り継いでいくためにはどうすればよいのかと考えた時、やはり子どもたちと共に学習していける資料が欲しい」と市民塾の仲間が「四日市公害と人権」という副読本を作成します。
はじめは澤井さんひとりだった語り部も、原告患者の野田さんが一緒に行うようになります。さらに、コンビナートで働いていた市民兵の山本さん、吉村さんが去ってから、ずっと澤井さんを支えてきた伊藤さんが加わっていきます。
判決35年を期に、20代の若手が「公害市民塾 瓦版」を引き継ぎ、「なたね通信」を発行しはじめます。環境学習センターとの協力も進み、記録写真約2300枚の電子データ化も行い、語り部講座にも新しい顔ぶれが見えます。澤井さんの「公害を記録し忘れない」ための活動は続きます。
現在、澤井さんは、公害の歴史と教訓を学べる公害資料館が必要だと声を大にして訴えています。さらに、コンクリートで埋め立てられてしまった海辺の空間を少しでも市民の憩いの場として再生させたいという願いもあります。
私たちも澤井さんの生きざまに学びつつ、公害の教訓を自分のものとして生かしていきたいと思います。

澤井さんが記録してきた文書の中には、公害学習をしていく上でいくつかの大切なキーワードがあります。私は、これらの中で、「四日市公害の真実はすべて“公害ぜんそく裁判”に凝縮されている」が特に重要ではないかと思っています。裁判を中心にして患者さんやその家族、それを支える人々など、「公害トマレ」に記された“人間の記録”こそを学ばれなければならないと強く思います。

40年以上にわたる「記録」や願いを通してわかる澤井さん自身の生き様を公害学習の中心として組み立てたいと思っています。