記録 澤井余志郎氏2013年7月23日 環境学習センターでの語り部活動

 四日市公害を約半世紀にわたって伝え続けた澤井余志郎さんが2015年12月16日、八十七歳で亡くなられました。公害資料館(四日市公害と環境未来館)はできましたが、澤井さんが残してきた資料の整理や展示等の方向性はあいまいなまま時間ばかりが過ぎています。このページは、四日市公害を忘れないために、尽力された澤井さんのおもいを少しでも、広めるために残していきたいと思います。 

公害を記録することに執念を燃やす澤井余志郎氏
 ガリ切りのしすぎで指が曲がってしまったが、パソコンを使って記録を続けている。
現在(2013年)では、「記録 公害と環境再生」を発行している。その中には、これまでの記録を振り返りながらの“記録”もあり、今だからこそ掲載しなくてはならないとの強い思いが表れている。「公害を記録する会」発行となっているが、澤井氏個人の活動である。ここに改めてこれらの記録を掲載していく。

澤井余志郎
 今年8月で85歳になった。さすがに、気は若いが体調はそうはいかない。
小学校5年生などへの“公害語りべ”では、体の衰えなど気づかずにやっている自分だが、満足感のあと、少々の疲れがある。
 私は、「語りべとか記録人」と呼ばれたりする。それで、元気?なうちに、その一端を残しておきたいと思う今日この頃で、こうして、昔ならばガリ版文集になるのだろうが、手作りの記録集を残していきたいと思いたちました。

2013年秋

公害裁判判決40周年 原告患者で漁師の野田之一の思い

公害を記録する会 澤井余志郎

朝日新聞より・・・・・・・・・・・ 二○一二年は判決四十年の節目の年。野田さんは八十歳になった。四○年前の勝訴判決で「これで助かった、死なずにすむと思ったが八十までは生きるとは思わなんだ。だが、八○にもなると体の衰えはどうしようもない、四十年まえにありがとうの挨拶は控えさせてもらい、青空がもどったときに“ありがとう”の挨拶をするって言ってきたけど、この先四五年の判決集会があって、生きていても皆さんのまえに出て“ありがとう”の挨拶はできない、四○年の集会を企画するんだったら、わしが皆さんにあらためて青空回復でのありがとうを言える場をつくってほしい、どんなことがあってもそれまでは死なんようにすると頼まれた。私は八四歳、順番から言えば私の方が先に死ぬことになるが、野田さんの思いは真剣である。・・・・・・・・・・・

以上抜粋 全文はこちらから(PDFファイル)

 公害とは、PPMの数字で表されるものではない。人間破壊であり、自然・環境破壊である。この事実を知る、見る、考える、そして受け継いでいかなければならない歴史の事実である。あやまちを繰り返えしてはならない。
 公害イメージを払拭しなければいけないとしきりに言う人が居る。イメージは、色も、形も、臭いもない、見えないものである、それをどう拭い去るのかわからない。公害裁判を起こした、患者・被害者側が勝訴したことで、やっと公害の改善がすすんだ。ぜんそく発生原因物質の硫黄酸化物は基準以下になってよかった。だが窒素酸化物はそうはいっていない。移動発生源の車排気ガスも加わり、判決以後横ばいで、PM2.5というあらたな汚染物質が問題視されている。

 公害イメージをなくすとして、教科書の改訂を要望している向きがあるが、もともと見えないものを相手にするのではなく、見えるもの、形あるものを相手にしてこそ効果があがる。それには、大気汚染が改善した道筋を、見える、聞こえるもので表示したほうがよい。常設展示場や、読む、語りべに聞く施設(公害学習センターといった施設)が必要である。
 なによりも、現在も公害裁判当時と同じく、四日市は火力発電所と石油化学工場コンビナートは現存している。そこでは、有害なガスと、高圧ガスのパイプが縦横に張りめぐらされ、危険と隣り合わせでいることに変わりは無い。いわば、いまも代わることなくコンビナートは公害発生振である。その発生源は公害裁判判決後、規制基準がきびしくなり、工場はそれを守ることに心がけるようになって、改善がはかられるようになった。なのに、ときどき爆発事故があったり(必要悪か?)、性懲りも無く産廃をにせリサイクルで利益をあげようとする工場や、規制基準を守っているとおもいきや、データ改ざんをしていた天下の三菱化学も内部告発であらわになる醜態をさらしている。公害イメージ払拭などとは言っておられない状況が現存している。

 四日市はコンビナートと運命共同体、なれば、公害発生源が公災害をひきおこすことのないよう、住民と工場と行政はトライアングルの関係を保持し、仲良くなるよりは、お互いが適度の緊張関係を持ち合うことが必要である。情報公開もしなくてはならない。それと、公害裁判の教訓を引き継いでいかなくてはならない。公害裁判世代がいなくなってきた今こそ、学習の場が求められている。この場合、注意しなければならないのは、行政も工場も、一人の自治会長をもって住民とする安易なことはしないようにしなければならない。それと、住民のなかに、公害市民運動団体も忘れてはならないことである。