1、四日市公害は、水俣と並ぶ戦後公害の原点であり、ノーモアヨッカイチは、日本だけでなく、世界でも知られている公害であり、改善についても、四日市は注目されていて、ICETTに各国から研修に来ている。公害の歴史学習でも外国から来ている。

2、三重県内外からも、小学校5年生が毎年20校以上、四日市公害学習で四日市を 訪れている。大学生や研究者も来ている。その受け入れ場所は、かっての公害激甚校である塩浜小学校と市環境学習センターである。塩浜小学校は、公害に負けない体力つくりにはげんだ「うがい室」や、校庭のほこり除けスプリンクラー、芝生、外周の樹木、それと展望室があり、なによりも、公害被害で校歌の一節を改作したなどの爪跡があり、公害と改善を学ぶに適した場所になっていて、代々の学校長・教頭先生などが、心良く受け入れをしてくれているが、いつまでも余分なご苦労をおかけするわけにはいかない。
 幸い、隣のヘルスプラザは、もともと、かって、県立塩浜病院があり、塩浜地区住民で公害裁判原告患者の入院先であった、歴史を持つ場所であり、塩浜小学校の隣にも位置していて、四日市市長の言う公害学習を行うのに最適の施設である。

① 40年という月日をどう感じているか?
 40年前の7月24日は、四日市ぜんそく公害訴訟判決があった。この日、原告患者の野田之一さんは、裁判所前の仮設舞台で「裁判には勝ちましたが、これで公害がなくなるわけではない、なくなったときに「ありがとう」と挨拶させてもらいます」と言いました。そのとき私は裁判所向かい側の市役所の屋上から写真をとっていました。裁判所前ではたくさんの人たちが「ばんざい」を叫んでいました。その場面を写そうとファインダーをのぞいたところ、敗訴した工場群の煙突からは代わることなく亜硫酸ガスを含んだ煙がはき出されいた。四大公害裁判の中で四日市は現在進行形の公害だった。野田さんは、続いて行われた記者会見で、マスコミを代表して質問したNHK名古屋のアナウンサーに「勝訴判決をもらってなにが一番うれしかったか」と聞かれ、「工場はどこもうちじやないと加害を認めなかったが、判決ではっきりと加害者は工場だと言ってくれた、今後は堂々と公害をなくせと言える、それが一番うれしかった」と言った。
 野田さんは「これからが本当の公害反対運動です。」と、万歳を叫ぶ支援者たちにメッセージを発したのですが、万歳で消えていったことで、野田さんたち公害患者の期待におうじられなかった悔しさを引きずって来ています。

日本科学史学会「四日市公害シンポジウム」での質問

2012年に三重大学を会場に行われたさいの発言 生きざまをめぐる問い(澤井への質問)
「黒衣に徹する」「被害者の立場に立つ」「記録を残すという運動のしかた」を貫ぬいてこられた澤井氏のものの考え方をはぐくんできた経験をお聞かせください。また、なぜそうしたことが重要と思われているか、今後その「信念」をどのような形で引き継いでいってほしいと思われているかお聞かせ下さい。

◇「黒衣に徹する」
 1967年2月、第一、第二火力発電と石油化学コンビナートの公害(油くさい魚と四日市ぜんそく)対策が進まない中、三重県と四日市市が、第3コンビナート誘致のための霞ヶ浦海面埋め立てを計画し、付近住民が反対のこえをあげた。労組組合員から「今夜ビラまきをするから地区労の仕事が終わったら手伝いに来い」と言われ出かけた。なんのことはない、「今からお前が原稿を書き。ガリキリせい」と、ガリバンー式が置いてあった。やむなく、原稿、ガリ切りして印刷、夜10時ころ、各戸配布した。
 あくる朝、大協石油(コスモ石油)の本部委員長から「組合事務所へ来るように」と電話があり出かけた。委員長の机に、昨夜まいたビラが置いてあった。「このビラはお前が作ったんやな」「そうです」「お前はどこから給料をもらっている」「ここの組合もそうですが、加盟組合の会費からもらっています」「そうだろう、組合は会社が大きくならなければ賃金はあがらない、それを反対すのやったら、うちの組合が地区労を脱退するか、お前が地区労を辞めるか、どっちを選ぶか返答せい」「どっちも返答できるものではないので、そちらで決めて下さい」で引き下がった。組合は地区労脱退を大会を開いて決めた。
 会社や組合の先輩たちが、「地区労の職員が反対のビラまきをしたので、脱退した」と新聞に書かれたら恥を書くのはこっちだ」となり、「いつ脱退するかは執行部が決める」で、脱退はなくなった。
 この年の9月、四日市ぜんそく公害裁判が提起されることがあり、被告6社のうち、4社は地区労、三化協の加盟組合で裁判支援から去って行くこともあり、黒衣でいくしかないと決めた。