語り部 2015年度、公害資料館が発足する。四大公害裁判と言われる、新潟水俣病、富山イタイタイ病、熊本水俣病では、すでに、公害資料館と呼べる施設があり、それらの施設では、語りべを重要視して実施、2013年9月28日、富山県立イ病資料館の呼びかけで、四日市を含めた四大公害の「語りべによる伝承会~公害の教訓を語り伝えるために~」が、富山イ病資料館で開催された。四日市からは野田之一さんに澤井が同行、四日市市資料館準備室長も参加。四大公害訴訟で初めての行政と被害者による研修会が開催された。 語りべは、患者本人や、家族といった方々であり、語りべさんは、必ずしも公害患者本人に限らなくても“やれる”との思いをもった「伝承会」であった。
 その伝承会に参加したことで、2015年度開館の四日市資料館での語りべ(伝承)の進め方について、一つの提案をしたい。つまり、なにを伝えるべきかである。

 まず第1の語りは、公害でいかに苦しめられたかの事実、くさい魚(汚された海)、四日市ぜんそく(大気汚染)、自然破壊(市民の憩う浜辺の喪失)などである。

 第2には、四日市ぜんそく公害裁判についてであり、原告患者の思い、勝訴判決の概略、企業、行政の有り様(亜硫酸ガス総量規制断行)、謝罪。

 第3には、判決40周年での、企業・行政・市民の三者による連携の実現があった。といったことで、語りべ一人がすべてを語るのではなく、分担して、原稿用紙に書いた原稿を読みながらでよい。語りべさんについては、それぞれ「持ち唄」(語りの項目)を持つといい。

 語りたいことは原稿用紙に書いて読み上げるとか、小中学生の作文、公害患者の聞き書き、公害裁判での原告本人意見陳述など聞き手により、読み上げを中心にしての語りでよい。まずは、聞き人の感性に訴えることである。(参考資料『くさい魚とぜんそくの証文』、小中学生の作文、ガリバン文集『記録・公害』のなかの聞き書き、など。)

四日市公害を「知る」「見る」「考える」

学習案内表紙

1、 四日市公害について、知る、考えるうえで、欠かせないのは「四日市ぜんそく公害訴訟」(1967年9月1日・提訴 ~1972年7月24日・判決)である。被害者・住民側からみて、この訴訟(公害裁判)を起さなかったら、起しても敗訴していたら、四日市の住民だけでなく、“公害列島”と呼ばれた全国の公害被害地の住民も、もっとひどい被害にあって苦しんだ、自殺者が多発したであろうことは容易に想像される。
 一方、加害者側の火力発電所と石油化学工場のコンビナートも、加害の暴走を「敗訴」することによりとどめ、加害行為を認め、公害対策を採らざるを得なくなった。

 


2013年11月に更新した参考資料です。上記のものの他に、当時の市長の声などがあります。

 

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四日市死の海と闘った

四日市海上保安部警備救難課長 田尻宗昭さんの四日市

澤井余志郎

海保へおもしろい課長が来た 石原産業公害刑事裁判と田尻さん

tajiriぜんそく( 民事) 裁判の被告企業であった化学産業メーカーの石原産業四日市工場は、四日市海上保安部の田尻宗昭警備救難課長率いる署員によって、廃硫酸たれ流しの摘発を受け、津検察庁によって刑事被告人となり、津地方裁判所で、摘発以降一○ 年( うち刑事裁判八年) の長きにわたり裁かれ、有罪判決を受けた。

田尻課長は、たった三年間の四日市勤務であったが、年数に関わりなく公害( 刑事) 裁判の主役としていまも語り継がれている。田尻( 宗昭) さんを知ったのは、海上保安部という役所が四日市にあって、そこへ田尻宗昭という面白い課長( 警備救難課長) が転勤で釜石から赴任して来たということ、そのためサツ( 警察) 回りのほかに海保回りも欠かせない日課になったと、若い新聞記者たちが楽しそうに話していたからで、その海保はなにをする役所なのかも知らないでいた。
釜石海上保安部で巡視艇「ふじ」の船長をしていた田尻さんは、四日市海上保安部の警備救難課長として赴任して来た。その頃の四日市は、石油化学コンビナートの加害責任を問う、四日市ぜんそく公害裁判開始の二年目で、ほどなく、コンビナート企業の疫病神になろうとは、本人も、誰も思わなかったであろう。それから三年という短い四日市海保勤めの間に政界を巻き込む騒動の人物になった。

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