語り部活動の中で、最近配布している「四日市公害学習案内」を随時掲載していきます。今までのシリーズの中から、抜粋したり加筆したりしたものです。すべてを掲載した時点で、PDF形式のファイルをダウンロードできるようにします。
塩浜小学校と公害
塩浜小学校は、公害地域の三浜、納屋、東・西橋北、海蔵、羽津小学校と、公害で悩まされた学校ですが、なかでも塩浜小学校は公害被害のひどかった学校でした。
第1コンビナートの工場は海軍燃料廠のあった所で、塩浜小学校も海燃の工作室・集会室に使われていた所です。
公害がひどくなり、悪臭やガス濃度が高いときに全校児童を避難させる場所にと、講堂と体育館を兼ねた建物に冷房のついた空気清浄機を備えました。1967年(昭42)のことです。(現在の体育館は建て替えられていて、空気清浄機はついていません)
この年の9月に、塩浜小学校区で卒業生でもある磯津の公害認定患者(学校隣の県立塩浜病院入院中)の野田之一さんたち9人が原告となっての「公害訴訟」がはじまっています。
塩浜小学校の公害対策
{tab=運動場に}
1、ガスを含んだほこりを舞いあがらせないために、運動場の一部に芝生を植え、スプリンクラー4個で散水していました。
2、公害被害を少しでも減らそうと、学校の周りに亜硫酸ガスや悪臭に強い、かいづか いぶき、さんごじゅ、まさき、黒松、ポプラ、ユッカ、ドラセナ、いちょう、などの木を植えました。児童や教職員が挿し木をしたりして数をふやしていきました。
{tab=空気清浄機}
3、悪臭がひどかったり、ガス濃度が高くなったりしたときに、窓を閉め空気清浄機を 運転して勉強ができるようにと、教室に設置しましたが、冷房装置がついていないので、夏場は、窓を閉め切るか、窓を開けたままにするか迷ったそうです。同じ空気清浄機は公害地校にも備え付けられました。現在は取り外されていますが、羽津小学校の倉庫に当時の空気清浄機が1台残っていたのを、市環境学習センターの公害資料室に展示してあります。
{tab=黄色いマスク}
4、活性炭をしみこませた「黄色い公害マスク」を、1965年(昭40)4月、市が、塩浜、三浜、納屋、東橋北の4小学校の全校児童約3300人に配りました。このうち、塩浜小学校では189人の新入生を含め1059人の児童に配り、「スモッグのひどいときや、匂いのきついときにかけなさい」と使い方を教えていました。この「黄色いマスク」は一躍、公害の代名詞にもなり、当時の九鬼市長は市議会で「石油化学工場には公害はありません」と答弁してはぱからない人だけに「マスクをしてもなんにもならない」と3年目からマスクの支給をやめてしまいました。このマスクを知った東京江戸川区の小学校長たちが調査に来て、大気汚染のひどい江戸川の小学校児童にかけさせるようにしたとのことです。
{tab=乾布まさつ}
5、児童は朝の授業開始前、教室で上半身はだかになり、塩小の作詞・作曲になる音楽にあわせての乾布まさつをやりました。“公害に負けない体力づくり”の一つです。乾布まさつは、夏・冬休みにも家庭でやるようにと指導していました。
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{tab=うがい}
6、“公害に負けない体力づくり”の―つとして、「うがい」もするようにしました。昭和40年代前半は木造校舎で、うがい場は1階の端や運動場の手洗い場で、蛇口も今ほど多くはありませんでした。鉄骨校舎になってからは、蛇口が40個ついた「うがい場」が各階に2箇所(3階)の6箇所あります。現在はうがい場としてでなく「手洗い場」になっています。1階の1箇所に当時の「うがいのしかた」の掲示板を残してもらってあります。
「ただしいうがいのしかた」
◇頭をうしろにさげるようにしてうえをむき、目はてんじょうをみる。
◇口をあけて「がらがら」と10回ぐちい声をだしてはきだす。これを
◇3回くりかえす。のどのおくまで水を入れてよくあらいだす。
◇一日6回する。(2回はくすりで)
註、くすりは、重曹を溶かし、ポリタンクに入れ、うがい場においてあった。公害地校には、養護教諭が2名配置されていて、養護教諭の朝の仕事は「重曹を溶かすことでした」と当時の養護の先生が話していました。
{tab=明け方の発作}
7、塩浜小学校児童で公害認定患者になったのは、公害裁判判決の1972年(昭47)に56名おりました。保健室には咳き込んで休養する子が多くいました。発作は明け方に多く、学校を休む子が多くいました。昼間は発作がおさまり、外であそんでいると、発作の苦しみを知らない近所の人が「あの子はいつもずる休みしている」と陰口されるのがつらいとその子の母親が悲しんでいました。
{tab=校歌を歌わない}
8、塩小の校歌にコンビナートを讃える歌詞があり、1970年(昭45)年の卒業式から校歌を歌わなくなり、3年ほどたってから、歌詞の一部を改作しました。
{tab=危険と隣り合わせ}
9、塩浜小学校は以前と変わらず、コンビナート工場とは、道路一本隔てただけの所にあり、公害裁判で患者側が「勝訴」したことで空気は前に比べ良くなりましたが、災害ではいぜんとして危険な所にあります。タンクの爆発で800キロの蓋が100メートル吹っ飛ぶ事故もあり、地震が起きたときのことを考えても危険地帯であることにかわりはありません。
{tab=語り部として}
10、15年ほど前から、県内外の小学校5年生が社会科見学で、かっての公害激甚校の塩浜小学校を訪れ、漁師で公害訴訟原告患者の野田之一さんなどの語りべから、公害の恐ろしさを聞き、うがい場で掲示を読みながらうがいをしたり、展望室に上がってコンビナートや磯津を眺めたりして、公害と自然・環境破壊について学ぶなどしています。
野田さんは「一度壊された自然は戻っては来ない。自然を壊さないように、四日市の現状をよく見て、勉強していってほしいと話しています。
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