語り部活動の中で、最近配布している四日市公害「学習案内」を随時掲載していきます。今までのシリーズの中から、抜粋したり加筆したりしたものです。すべてを掲載した時点で、PDF形式のファイルをダウンロードできるようにします。
中村 留次郎さんの話
(1969年9月、磯津の中村家で。この日、風向きも体の調子もよいのでと、塩浜病院から一時抜け出して、奥さんと、魚用の網を編む内職をしながら、話してくれた。)
36年(1961年)に突然苦しい発作がきてね(当時56歳)。その時、磯津で60人ばか発作をおこしてね。重い人はいきなり、病院へ走ったですね。
私もはじめ市立病院へ行ってさ。家内をつれてって毎日介抱させてさ。こんなものなおると思っていたら、内科の先生が「おそらく治りませんなあ・・・」って言い出したやろ、治らんってどういうわけや言うたら、「今、このぜんそくを治す薬も注射もない。ただ発作をおさえるだけや」と、こう言わした。これは、弱ったもんやなとおもっとったが、いちどき激しい発作は押さえてもらって2ヶ月ばかりで退院してきました。
37年(1962年)からは塩浜病院(三重県立大学医学部付属)できびしい薬をもらってね。1週間1200円ずつ医療費を払ってね。だいたい1年と2ヶ月ばかり通院して過ごしてきたかなあ。
39年(1964年)の1月がきたら、まあきびしい発作が再三くるので、中山さん(開業医)も、頼むで入院してくださいと言うし、子どもも、これじゃあ周囲がもたないというので塩浜病院へ入院した。
金があるもの、縁故関係のあるものは遠いところへ行ってね。半年か1年と居ってくると、居る間は、絶対発作は起こらないし、体も回復してピチピチしてきますけど、また磯津へくると、10日ももちませんね。
とにかくあらゆること、しゃばの人がいいということはやりましたよ。断食もしたし、座禅も組んだし、人間の焼いた骨がいいというので、それも1ヶ月のんだしさ・・・・なにしたところで治らない。
公害訴訟をおこすっていう話が出ていますが、いちばん大きな問題は、人さまをかたわにして、働けないようにして、いま現在入院しておるのに、一度も見舞いに来ない、それで当たり前だというて、それですみますかと言うのや、法律に照らして。
磯津でも、35年までは、1入か2人のおじいさん、おばあさんが、ぜんそく暮らしというのがあっただけで、36年の暮れから37年にかけていっぺんに66人になったんだからね、今現在おそらく150人ぐらいいるでしょう。
この間、三上(美樹、のちに三重大学長)という医学博士が、私に言いました「訴訟はすすめ
ませんが、万が一、訴訟にふみきったときには、医者から、その立証はできます」と。
公害患者でも、これはおとなしいからいかん、やれはいいんだ、ほんとうですよ。私等も生きる権利があるんだ…、こんな泣き往生してね、相手にこんだけ踏みにじられたことをされて、入院をしなけれはならんような病気に有毒ガス持ってきたんだから、こんなもの、やったって正当防衛ですよ、そりゃあ犠牲者がかりに出ても、正当防衛になりますよ。
どんだけ頼んでも、どんなこといってお願いしても、相手が言うことをきかないんだから…、やらないのが、おかしいですよ。私等はもう年寄っとるし、そういう勇気もないけれど、若いは、陰ではそう言うとります。もう今にやるでしょう、きっと。そりゃあね、年寄りは自殺していきます。だが若い人は、いまから子どもなんかも学校にやってかんならん責任がある…、やる時期がきておるですよ。
それでね、私の言うことがオーバーであるか、矛盾しておるかどうか、あんたたち、どう思いますか。
第一コンビナート付近の塩浜・磯津の人たちはおとなしいですよ。これは7~8年にもなるでしょう。はじめは石炭たく(三重火力)時分から、すすで洗濯物は汚れ、トタン類なんかも3年しかもたん、それを陰でいうとりながら行動を起こさない、女の人も団結しない。
だけど、第二コンビナートの、午起・高浜付近の人はえらいですよ。洗濯物は会社が集めに来て、乾かして、アイロンかけて、配達している。これは女子のカがえらいからだ。
お互い、男は一家の責任者だから、出て働かんならん。女が団結すれば、これは力になる。あとから出来たところの人が、洗濯物をちゃんとしてもらっているのに、はじめからおる在所 (塩浜)が、一言も言わヘん…。
1番気の毒なのは、重病で、重いぜんそくにかかって、もう肺気腫になっとるとか、5年も経 過した人。また通院していても、無理して浜へ行っている人、これが1番気の毒や。こういう人が磯津でずい分おりますよ、283入(その頃の公害認定患者数)のうち、おそらく磯津が100人以上でしょう。