「磯津」へ煤煙が到達する
四日市市の南東部に位置する塩浜地区の第一コンビナートが、本格操業を始めてから、鈴鹿川を隔てて隣接している磯津の町で、開業医の中山医院に、「咳が出る」「のどがおかしい」「激しいぜんそく発作が出る」などの症状を訴えて駆け込む患者が急増した。1961年(昭和36年)夏のことだった。
この漁師町の磯津で、ぜんそくといえば、「あそこの爺さん」「こっちの家」といえるほど、限定されていたのに、同じころぜんそく発作で、医師へ駆け込む人たちは、そうしたぜんそく持ちの家の人たちではなく、しかも、漁で沖に出れば何ともないわけで、「こいつはおかしいぞ」「工場がくるまではこんなことがなかった」「工場の煙に何か有害ガスが?」「犯人はコンビナートの煙に違いない」と、PPMも、SO2も知らなかった磯津の人たちは、亜硫酸ガスの恐ろしさをまず身体で知らされた。
煤煙が磯津に到達することを証明する必要があった
被告企業の煤煙が磯津に到達することを経験的に知っていた磯津の原告たちだったが、裁判となると、被告企業の煙突からでた煤煙が磯津に到達しているのかを証明しなければならなかった。被告側が風洞実験や到達濃度計算などを使用して、煤煙は到達しないと反論した。これには、原告患者が、「磯津の家に来て窓を開ければすぐわかること!家で裁判をやれ!」と大いに怒った。
裁判での被告企業の反論
大気中に出た排ガスは複雑な気象条件が加わり拡散、流動する。しかし、原告側は単純な推定で、被告らの工場から磯津へ到達しているという。因果関係で問題となるのは排出量ではなく、到達量だが、それは立証されていない。風洞実験や到達濃度計算だと、六社の排煙は磯津の亜硫酸ガス濃度に影響を与えていない。
裁判での原告側の口頭弁論
私らの故郷が、企業が来る以前からこんな病気があったか、なかったか・・・・・1番よくご存じは裁判長さんです。私はそう思ってます。 それに企業の方は、法律の先生方をようけ連れてきて、そうして、うちじゃない、うちじゃない・・・・・一体磯津へどこの煙がきたというんです。 今も聞いていますれば、(原告陳述前に、被告企業6社それぞれの最終陳述があった)、うちんとこじゃない、うちんとこじゃない・・・・・と。そうすると、磯津は、地から煙がでてきたんか。あまりにも無責任なやりとりじゃありませんか。
判決より抜粋
磯津地区の大気汚染は、被告ら工場のばい煙が主な原因である。その理由は次のとおリである。
イ 被告ら工場は、磯津の西北西から北東方にわたり、これに近接して所在する。
ロ 被告ら工場を中心とする第一コンビナート工場群が本格的操業にはいったのは、昭和三三ないし三五年ころであるが、四日市で大気汚染が問題にされ、市政の中にとり上げられたのが昭和三五年であリ、両者は時期的に符合する。
ハ 磯津地区におけるいおう酸化物鰻度の経年変化と被告ら工場の排出いおう酸化物量の経年変化とが、資料の存する昭和三六年から四二年までの間において、よく対応している。
ニ 磯津地区では、被告ら工場の主風向下になる冬期において、いおう酸化物濃度が高くなり、反対に被告ら工場の北ないし西方にこれに近接して所在する三浜小学校では、右工場の主風向下になる夏期にいおう酸化物濃度が高くなる。
ホ 四日市におけるいおう酸化物等量線は、磯津地区など被告ら工場に近接した地域に高濃度を示し、そこから遠ざかるに従って濃度がてい減している。
へ 汚染の特徴として、比較的風速の速い時にピーク汚染が現われるのは、コンビナート関係工場の大容量燃焼施設が集中して設置されているため、ばい煙があまり拡散稀釈されないまま主風向に従って競合して流れる、特に比較的風速の速い時に建屋等の風下側に減圧空間を生じ、各工場の排煙が巻き込まれて排出源のよリ近傍に集中的に流れ出るためであると考えられる。