塩浜小学校の校歌が修正されたことが公害学習をする上でよく取り上げられる。
「港のほとり並びたつ 科学のほこる工場は 平和を護る日本の 希望の希望の光です・・・」と歌っていた。
校歌は、コンビナートが操業を始めた頃にできあがった。当初は、市民もコンビナートを百万ドルの夜景とか四日市のシンボルと呼んでいたために抵抗なく歌っていた。その後コンビナートから排出される亜硫酸ガスなどで、ぜんそく患者が続出し、塩浜小学校でも50人近い児童が認定患者となっていた。こうしたことから、校歌の修正を求める意見が持ち上がったのであった。
その修正された校歌の内容は次のようであった。
「南の国から北の国 港を出て行くあの船は 世界をつなぐ日本の 希望の希望の光です・・・」
しかし、この校歌が歌われなかった卒業式が一度あった。
それが、昭和47年3月18日の卒業式である。当時の朝日新聞によると、石油化学コンビナートを“希望の光”として歌い上げる校歌は時代にそぐわないとして、作詞した方に修正を求めていた。その新しい校歌ができあがったのが、この年の2月下旬であった。当初は歌う予定で進めていたが、急に新しい校歌にかえても子どもたちがなじめない、などが学校側で話しあわれた。また、現校歌についてもこのまま歌うわけにはいかないとして、18日の卒業式ではどちらも歌わないことになった。
この日の卒業生には、ぜんそく発作で亡くなった四日市公害裁判の原告であった瀬尾宮子さんの娘さんがいた。父親は「校歌がないというのはさびしい。公害に関係なく、塩浜小にふさわしい校歌を歌わせてやりたかった。」と娘さんの後ろ姿を見つめていたそうだ。
この年の7月24日に原告勝訴の判決があった。