四日市の港を歩く (続)

 現在四日市市は人口30万人。三重県では県庁所在地の津市を抜いて県下第1の「都市」。「公害のまち」で全国に知名度が高くなってしまったが、それがなければ内外の人々はどんなイメージを描くのだろう。たしかに戦後は石油化学コンビナートに代表されるように「工業都市」の印象は強い。しかし、歴史的に見れば「伊勢湾」に面しているのだから漁業と貿易の「港町」として栄えてきた。そんな事実を改めて市民塾例会勉強会では学ぶことができた。

 江戸時代から既に廻船の基地として機能していたのを明治に入って問屋主の稲葉三右衛門が港の改築を手がけたのは周知のこと。旧港あたりが「稲葉町」「高砂町」と命名されたのはその縁による。さらにオランダ人技師デ・レーケにより旧港より大規模な築港計画が作成されたのが明治19年とされている。

2011_0104_153333-DSCF2108デ・レーケの「四日市築港設計図」。旧港公園の石畳の一部に組み込まれている。現在の末広町・千歳町の場所には「SITE FOR NEW TOWN」と記されている。    当時の図面には「工費 参百拾萬圓」とある。そして海外貿易が盛んになり綿や羊毛の輸入とともに四日市には紡績会社が各所に設立される。平穏で豊かな港町の風情が、今も残る老舗料亭や船員会館の存在から思い起こすことができる。

 しかし、この町の様相が大きく変わるのはやはり「戦争」だろう。1940(昭和15年)前後に石原産業や大協石油が進出し、さらに海軍燃料廠が建設されたことによって「軍都」へと邁進する。紡績工場は軍需工場化し港もまた軍港となる。ここからが戦後の石油化学コンビナートへの大きな転換点といえるだろう。はたしてデ・レーケはかくなる未来を想像しただろうか。悲劇の序章とでもいえる1ページとなる。2月例会勉強会はここがポイント。「まちづくり」の観点からも避けて通れない。

 霞ヶ浦の四日市港ポートビルに行けば港に関するいろんなパンフレットが無料でもらえる。また1月例会分の資料(年表)はファイルとして添付。ぜひご覧いただければと思う。1月勉強会資料