四日市公害を考える勉強会②「海軍燃料廠について」

四日市市南部を東西に数㎞にわたって走る一本の道路を地元では「海軍道路」と呼んでいます。現在、東の端は塩浜(第1)コンビナートであり西の端の丘陵地帯と結んでいます。そして、この通称の由来を考えてみる時「公害」と「戦争」がつながってきます。
1938(昭和13)年、日本には「国家総動員法」が公布され戦局の深まりとともに、海軍は既設の燃料廠だけでは不十分として四日市への増設を決定。その場所として決められた塩浜住民は立ち退きを言い渡され、住み慣れた故郷を離れざるを得なかったのです。そして二年をかけて建設された「海軍第二燃料廠」は60万坪の広大なものであり、経費は現在価格に換算して約数千億円という巨費を投じています。さらに西部の丘陵地には「山の工場」と呼ばれる工廠などが作られ道路で結ばれ、「海軍道路」として誕生しました。

1945(昭和20)年6月米軍による大空襲を受け8月の敗戦を迎え、燃料廠も大きな痛手を被りますがその跡地の利用を巡って複雑な経過をたどります。戦前からの工場も隣接し充実した港湾設備が控える広大な「空き地」は、決定まで10年かかったのですが「昭和四日市石油」として59(昭34)年操業を開始します。そして、この地は四日市における石油化学コンビナートとしてのスタートを切るわけです。「戦争」と「公害」が線上に並ぶ歴史がここに刻まれたとでもいえるのでしょうか。

2011_0228_193347-DSCF22652月の例会は参加者が20名を越える盛況でした。新しく見えた方も幾人かあり、特に年配の方からは四日市空襲の経験も話していただいたきました。若い方も多く見えて層の広がりも感じられ喜ばしい限りでした。資料館への道にも灯りが感じられるこの頃、今後とも一層の充実を継続していきたいものです。

次回の勉強会(3月例会)は3月28日(月)「四日市公害の発生とコンビナート」です。よろしくお願いします。

四日市公害を考える勉強会資料

「磯津」へ煤煙が到達する

kouku_syouwasekiyu_71.8.11 四日市市の南東部に位置する塩浜地区の第一コンビナートが、本格操業を始めてから、鈴鹿川を隔てて隣接している磯津の町で、開業医の中山医院に、「咳が出る」「のどがおかしい」「激しいぜんそく発作が出る」などの症状を訴えて駆け込む患者が急増した。1961年(昭和36年)夏のことだった。
 この漁師町の磯津で、ぜんそくといえば、「あそこの爺さん」「こっちの家」といえるほど、限定されていたのに、同じころぜんそく発作で、医師へ駆け込む人たちは、そうしたぜんそく持ちの家の人たちではなく、しかも、漁で沖に出れば何ともないわけで、「こいつはおかしいぞ」「工場がくるまではこんなことがなかった」「工場の煙に何か有害ガスが?」「犯人はコンビナートの煙に違いない」と、PPMも、SO2も知らなかった磯津の人たちは、亜硫酸ガスの恐ろしさをまず身体で知らされた。

煤煙が磯津に到達することを証明する必要があった

被告企業の煤煙が磯津に到達することを経験的に知っていた磯津の原告たちだったが、裁判となると、被告企業の煙突からでた煤煙が磯津に到達しているのかを証明しなければならなかった。被告側が風洞実験や到達濃度計算などを使用して、煤煙は到達しないと反論した。これには、原告患者が、「磯津の家に来て窓を開ければすぐわかること!家で裁判をやれ!」と大いに怒った。

 四日市の港を歩く (続)

 現在四日市市は人口30万人。三重県では県庁所在地の津市を抜いて県下第1の「都市」。「公害のまち」で全国に知名度が高くなってしまったが、それがなければ内外の人々はどんなイメージを描くのだろう。たしかに戦後は石油化学コンビナートに代表されるように「工業都市」の印象は強い。しかし、歴史的に見れば「伊勢湾」に面しているのだから漁業と貿易の「港町」として栄えてきた。そんな事実を改めて市民塾例会勉強会では学ぶことができた。

 江戸時代から既に廻船の基地として機能していたのを明治に入って問屋主の稲葉三右衛門が港の改築を手がけたのは周知のこと。旧港あたりが「稲葉町」「高砂町」と命名されたのはその縁による。さらにオランダ人技師デ・レーケにより旧港より大規模な築港計画が作成されたのが明治19年とされている。

2011_0104_153333-DSCF2108デ・レーケの「四日市築港設計図」。旧港公園の石畳の一部に組み込まれている。現在の末広町・千歳町の場所には「SITE FOR NEW TOWN」と記されている。    当時の図面には「工費 参百拾萬圓」とある。そして海外貿易が盛んになり綿や羊毛の輸入とともに四日市には紡績会社が各所に設立される。平穏で豊かな港町の風情が、今も残る老舗料亭や船員会館の存在から思い起こすことができる。

 しかし、この町の様相が大きく変わるのはやはり「戦争」だろう。1940(昭和15年)前後に石原産業や大協石油が進出し、さらに海軍燃料廠が建設されたことによって「軍都」へと邁進する。紡績工場は軍需工場化し港もまた軍港となる。ここからが戦後の石油化学コンビナートへの大きな転換点といえるだろう。はたしてデ・レーケはかくなる未来を想像しただろうか。悲劇の序章とでもいえる1ページとなる。2月例会勉強会はここがポイント。「まちづくり」の観点からも避けて通れない。

 霞ヶ浦の四日市港ポートビルに行けば港に関するいろんなパンフレットが無料でもらえる。また1月例会分の資料(年表)はファイルとして添付。ぜひご覧いただければと思う。1月勉強会資料 

冬ざれのまち から   2月11日  ニュース2件

【その1】 中日新聞社会面(地方版ではなく)に『公害資料館に初調査費』との記事が5段で掲載されました。朝日・毎日が2~3行でしたから破格の扱いといえましょう。内容を整理しますと、四日市市が新年度当初予算案を発表。公害資料館がらみの予算が計上されたというものです。具体的には「あり方検討会」の設置など調査費として当面1千万円、プラス3年計画で2億円となっています。2012年着工をめざすということで「長期構想」の議会承認をを受けての流れです。3月の議会決定待ちとなりますが確かな一歩となりましょう。詳しくは記事を添付しましたのでご覧ください。中日新聞記事

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【その2】 11日は朝から雪模様の冷たい一日で午後は小雨交じりの「冬ざれ」となりましたが、滋賀から立命館BKCの諸君がフィールドワークにやってきました。教職を目指す学生7名と指導教官1名が車2台に分乗して来訪。市民塾3名が塩浜のヘルスプラザで待ち合わせ。塩浜小学校=鈴鹿川右岸堤防=磯津(河口)=磯津漁港=本町プラザの経路で約4時間の案内となりました。あまり予備知識のない諸君でしたが、寒気の中で猛煙の如く広がる工場の水蒸気の光景や、工場に隣接する小学校にオドロキの様子でした。最終の本町Pでは6階で資料の説明やDVDでの学習も行いました。小学生への公害学習同様こうした幅広い世代への語り継ぎの大切さも改めて実感しました。

 

四日市の港を歩く   (1/23)

 いま四日市市には「四日市港」が二カ所あります。まず80年来の歴史をもつ「四日市地区」の港。第1コンビナートに接していて羊毛やナタネなどを輸入し三つのふ頭を備え倉庫が建ち並んでいます。もう一つは第3コンビナートの「霞ヶ浦地区」(出島)にあり、自動車輸出の基地になっていて40年ほどの新しい港です。二つはいずれも海面を埋め立てたものであり工業都市・四日市の「発展」を支えた拠点ということができます。

 しかし四日市港の歴史はもっと古く現在では「旧港」として国の文化財指定を受け、その名残を整備された公園とともに残しています。周辺は人通りも少なく利用者も多くはないのですが「潮吹き防波堤」など往時を偲ぶ懐かしい雰囲気を漂わせています。市や港管理組合の作成したパンフレットには紹介されていますが、明治初期稲葉三右衛門によって始められた造成地に、オランダ人技師デ・レーケ設計の港が最終的に完成したのは1894(明治27)年のこと。それ以来何度か修築が行われますが、末広町・千歳町の埋立とともにその役割2011_0104_154809-DSCF2121◎今回の写真は「旧港」に整備された公園です。高砂町にあります。を終えることとなりました。

 その他、千歳町あたりを歩いてみますと跳開式鉄道可動橋「末広橋梁」や「臨港橋」など貴重な建造物が見られます。これらの歴史をさぐってみると単なる「史跡」ではなく、まさに「四日市公害」の形成過程をも学ぶことができます。例会での「勉強会」は資料館への備えも含めてみんなで考えていきたいと思います。1月は24日2月は28日(月)となります。