武漢テレビ 四日市を撮る・・・・・。 (3/30)

中国の武漢テレビが四日市に取材に来ました。その様子を澤井余志郎さんから報告してもらいました。
◎ 中国出身で名古屋市在住の女性ライター欧陽さんの『感受日本-わかりあえるか中国人と日本人』が出版された。この本は2年前に中国語で書き故郷の武漢市で出版されたもので、武漢テレビ局はこれを機に武漢出身の欧陽さんを通してみた日本の文化や社会を紹介するドキュメンタリー番組を企画。3月24日から4月14日まで滞在、欧陽さんに関わりのある中国人、日本人及び各種団体、生活周辺を取材。番組は一回10分間の12回シリーズ。夜20時のタイムで放送される。武漢テレビの視聴範囲は武漢市と周辺の総人口2千万人超。

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◎ 3月30日、一行は欧陽さん、武漢テレビスタッフ3名と名大に留学中の中国人学生2名(通訳補助)と、新幹線公害訴訟の一人の計7名。四日市市環境学習センターで澤井が迎え「公害学習室」で四日市公害の概況について語りべのあと、塩浜小学校を鈴鹿川南堤防から望み、磯津で第1コンビナートについての説明をした。中国の公害についてどう思うかと問われたので「手遅れにならないうちに有効な公害防除対策をしてほしい」と答えておいた。

亜硫酸ガス(二酸化硫黄)がぜんそくの原因

原告患者側は、煤煙が磯津に到達するということを証明するとともに、亜硫酸ガスがぜんそくの原因であることも証明する必要があった。
被告側企業は、「ぜんそくの原因は、たばこの吸いすぎではないか、菜種の花粉が原因ではないか」などと揺さぶりをかけてきていた。原告側は、経験的に煤煙のせいであるというだけでは、裁判に勝つことができないため、科学的に証明しなければならなかった。科学裁判といわれる所以だが、そのために、患者たちの生の声や苦しい生活状況は見えにくくなっていった。

裁判でのやりとりから

slide30吉田克己教授 slide31大島秀彦助教授

「磯津」へ煤煙が到達する

kouku_syouwasekiyu_71.8.11 四日市市の南東部に位置する塩浜地区の第一コンビナートが、本格操業を始めてから、鈴鹿川を隔てて隣接している磯津の町で、開業医の中山医院に、「咳が出る」「のどがおかしい」「激しいぜんそく発作が出る」などの症状を訴えて駆け込む患者が急増した。1961年(昭和36年)夏のことだった。
 この漁師町の磯津で、ぜんそくといえば、「あそこの爺さん」「こっちの家」といえるほど、限定されていたのに、同じころぜんそく発作で、医師へ駆け込む人たちは、そうしたぜんそく持ちの家の人たちではなく、しかも、漁で沖に出れば何ともないわけで、「こいつはおかしいぞ」「工場がくるまではこんなことがなかった」「工場の煙に何か有害ガスが?」「犯人はコンビナートの煙に違いない」と、PPMも、SO2も知らなかった磯津の人たちは、亜硫酸ガスの恐ろしさをまず身体で知らされた。

煤煙が磯津に到達することを証明する必要があった

被告企業の煤煙が磯津に到達することを経験的に知っていた磯津の原告たちだったが、裁判となると、被告企業の煙突からでた煤煙が磯津に到達しているのかを証明しなければならなかった。被告側が風洞実験や到達濃度計算などを使用して、煤煙は到達しないと反論した。これには、原告患者が、「磯津の家に来て窓を開ければすぐわかること!家で裁判をやれ!」と大いに怒った。

四日市公害を考える勉強会②「海軍燃料廠について」

四日市市南部を東西に数㎞にわたって走る一本の道路を地元では「海軍道路」と呼んでいます。現在、東の端は塩浜(第1)コンビナートであり西の端の丘陵地帯と結んでいます。そして、この通称の由来を考えてみる時「公害」と「戦争」がつながってきます。
1938(昭和13)年、日本には「国家総動員法」が公布され戦局の深まりとともに、海軍は既設の燃料廠だけでは不十分として四日市への増設を決定。その場所として決められた塩浜住民は立ち退きを言い渡され、住み慣れた故郷を離れざるを得なかったのです。そして二年をかけて建設された「海軍第二燃料廠」は60万坪の広大なものであり、経費は現在価格に換算して約数千億円という巨費を投じています。さらに西部の丘陵地には「山の工場」と呼ばれる工廠などが作られ道路で結ばれ、「海軍道路」として誕生しました。

1945(昭和20)年6月米軍による大空襲を受け8月の敗戦を迎え、燃料廠も大きな痛手を被りますがその跡地の利用を巡って複雑な経過をたどります。戦前からの工場も隣接し充実した港湾設備が控える広大な「空き地」は、決定まで10年かかったのですが「昭和四日市石油」として59(昭34)年操業を開始します。そして、この地は四日市における石油化学コンビナートとしてのスタートを切るわけです。「戦争」と「公害」が線上に並ぶ歴史がここに刻まれたとでもいえるのでしょうか。

2011_0228_193347-DSCF22652月の例会は参加者が20名を越える盛況でした。新しく見えた方も幾人かあり、特に年配の方からは四日市空襲の経験も話していただいたきました。若い方も多く見えて層の広がりも感じられ喜ばしい限りでした。資料館への道にも灯りが感じられるこの頃、今後とも一層の充実を継続していきたいものです。

次回の勉強会(3月例会)は3月28日(月)「四日市公害の発生とコンビナート」です。よろしくお願いします。

四日市公害を考える勉強会資料

冬ざれのまち から   2月11日  ニュース2件

【その1】 中日新聞社会面(地方版ではなく)に『公害資料館に初調査費』との記事が5段で掲載されました。朝日・毎日が2~3行でしたから破格の扱いといえましょう。内容を整理しますと、四日市市が新年度当初予算案を発表。公害資料館がらみの予算が計上されたというものです。具体的には「あり方検討会」の設置など調査費として当面1千万円、プラス3年計画で2億円となっています。2012年着工をめざすということで「長期構想」の議会承認をを受けての流れです。3月の議会決定待ちとなりますが確かな一歩となりましょう。詳しくは記事を添付しましたのでご覧ください。中日新聞記事

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【その2】 11日は朝から雪模様の冷たい一日で午後は小雨交じりの「冬ざれ」となりましたが、滋賀から立命館BKCの諸君がフィールドワークにやってきました。教職を目指す学生7名と指導教官1名が車2台に分乗して来訪。市民塾3名が塩浜のヘルスプラザで待ち合わせ。塩浜小学校=鈴鹿川右岸堤防=磯津(河口)=磯津漁港=本町プラザの経路で約4時間の案内となりました。あまり予備知識のない諸君でしたが、寒気の中で猛煙の如く広がる工場の水蒸気の光景や、工場に隣接する小学校にオドロキの様子でした。最終の本町Pでは6階で資料の説明やDVDでの学習も行いました。小学生への公害学習同様こうした幅広い世代への語り継ぎの大切さも改めて実感しました。