「四日市ぜんそく」について小学生からよく尋ねられる質問です。

コンビナートが広がってどんなことが起こりましたか?

原因不明の【塩浜ぜんそく】と呼ばれる病気が出始めました.第2コンビナートが運転をはじめた1963年以降は、発病地区が広がって【四日市ぜんそく】にかかる人(お年よりと子供が多い)が増えました。

磯津の漁師が「工場がきたので、税金がたくさん入り、市は発展したかもしれないが、市民のわしらは、ぜんそくにかかり、漁にも行かれず、入院せんならん」となげいていました。

四日市ぜんそくが広がっていたとき、四日市の空はどんな様子でしたか?

霧のような、少し先も見えにくいようなスモッグが立ちこめることがよくありました。

夜、鈴鹿の山々のほうから四日市をながめると、四日市の町がすっぽりとガスのかさでおおわれているのがよくわかりました。町中では見えない星も、山のほうで空をながめると、たくさんの星が見え、星ってこんなにたくさんあるものかと思ったことがあります。

四日市ぜんそくが広がったとき、四日市の海はどんな様子でしたか?

第1コンビナート(内陸もふくめ)工場はい水は、四日市港へ流されます。生物ゼロといわれるほどの汚い海になり、七色といえばきれいな虹を想像しますが、どろどろした色、油が浮くなど、海のにおいのしない悪臭の海でした。

中部電力三重火力発電所は、その海水を発電機を冷やすのに使ったあと、反対側の鈴鹿川へ流したので、磯津近辺の魚がくさくなる、奇形になる、いなくなるなどのようなことがありました。

磯津の漁師たちが鈴鹿川へ流さないでほしいとうったえましたが、聞き入れてもらえませんでした。

四日市の空にコンビナートの煙が広がったとき、どう思いましたか?

ぜんそくが出始めたころから、煙の中にふくまれている亜硫酸ガス(二酸化イオウ)が、ぜんそくを引き起こす悪いガスと知られるようになりました。

「えんとつにふたをしてやりたい」と作文に書く小学生もいました。

煙突の高さはどれぐらいでしたか?

1955年に石炭を燃料として運転をはじめた三重火力発電所の煙突は、57.3メートルで、その後に作られた昭和四日市石油などはこれよりもひくい煙突でした。(1963年に運転をはじめた四日市火力は、最初から120メートル)

1963年秋、国の調査団が四日市へきて、煙突をもっと高くしなさいといいました。

それで、1965年ころから各工場とも100,120,150,200メートルと高い煙突をつくり、ガスを広い地域にばらまくことによって、工場に近いところをうすくするようにしました。しかし、工場から出すガスの量をへらさなかったので、このことがかえって、ぜんそくを広めることにもなったのでした。

ぜんそくのとき、外へ出てもだいじょうぶだったのですか?

ガスでおそわれないかぎりは、だいじょうぶとまではいきませんが、まあ、健康の人と見かけは変わりません。

塩浜病院に入院していた漁師の患者さんは、朝早く、伊勢湾の沖合いへ漁に出かけます。ガスがこないかぎり一日働いていて、夜は病院〔空気せいじょう病室〕で寝ます。外へ行くときは必ずといっていいほど、ぜんそく止めのけいたい用吸入器を持っていきます。

四日市ぜんそくにかかった人は何人ぐらいいましたか?

公害認定患者の年度別数でいくと、1975年(昭和50年)1140人でピークとなっています。この数は、新規患者数、認定取り消し、死亡者数などの現在数ですから、認定になった患者数はこれよりもずっと多い。また、認定を申しこまなかった患者もいるわけで、もっともっと多くの人数になります。

四日市ぜんそくにかかって、つらかったことはどんなことですか?

四日市ぜんそくになってみないことには本当のつらさは、わからないと言います。患者の小学生が発作が起きて苦しむと、たんすやふすまをひっかいたり、しがみついたり、「かあちゃん、殺して!」「死にたいわ」と苦しみます。つらいことを通り越しています。

また、ぜんそくがうつるであの子と遊んだらいかんと、友達のお母さんがその子に言ったり、『セキゴン』とともだちにからかわれることもありました。

大人の場合でも、入院患者がベットから落ち、『助けてくれ』って一言いって死んでしまいました。

ある人が「悪いこともしてないのに、なぜ、助けてくれって死なんならん、わしもそんな目にあうのかと思うと情けなくなる」となげいていました。

1999年、10月22日、塩浜小学校で、社会見学(公害学習)に訪れた小学校5年生の質問に答えたときの話

みなさんの質問に答えたいと思います。

油くさい魚はどれくらいくさかった?

これは、油臭い魚って食べたことない?この魚臭いというのはね、要するに、油とかゴミとか今の化学洗剤とかに汚染されたものだからね。洗剤のにおい と油のにおいがついてね、ちょうど、あんたたち軽油のにおいって・・・・?においはあんな感じ・・・臭いさかなをもし食べたかったら、今でもまだあります もんで、言ってもらえれば食べてもらえます。

溶けたスクリューを見てどう思った?

かねが溶けたということは、硫酸なんかやとかねが溶けるわな、石原産業が公害裁判中に摘発されて、裁判に負けて、賠償金支払ったという石原産業とい うのは、硫酸を海に垂れ流しとったわ。だからね、その付近を航海したり、そんな近くで漁をしとったりすると、船のスクリューなんかもろにやられてしまう。 溶けたというより、くさったんやね。で、その付近の家でも、昔はみんなとたんの雨どい。雨どいなんか1年もたんだ。みんなくさっててね。これというのは、 イオウというか硫酸というか石油精製に対して、イオウが副産物としてできた。今は、脱硫装置なんかつけて、ちゃんととってますけど、その当時は、垂れ流し てほりっぱなしやから、硫酸の雨がふっとった。だからねえ、くさってくるわ。船のスクリューがくさってくるというのは、要するに、わしら、自分の足がく さってくるんやで。いったいどうなんのやろと、もうそのうち伊勢湾に生きたもんおらんようになってしまうんじゃないかと心配があったけどね。その当時の漁 師にはね、どうすることもできやんだんや・・・・・・

海はどれくらい汚れていたのか?今でも汚れているか?

ボラやスズキなんかはね。今でもたくさんとれるけど、当時のイメージがあるから、この付近の人は、今でもボラは食べません。ボラが一番臭かったから ね。そのボラがね、手づかみできるほど捕れとった。要するに、ボラを捕る人がおらんから、ボラも逃げやんだわけ。極端な話するとね、そのへんのみぞにね、 変な魚がうようよしとるわね、あれと一緒でねえ、・・・汚れとったと。どれくらい汚れとったかというと、まあ、なんていうか、海というのは、海底があっ て、砂があって、泥があって、その砂や泥の中に、シャコとかエビとかが生息しとったわね。今はやかましい言われとるけど、当時は、ポイ捨てやね。それが、 川に流れて、海に流れて、下で生活しとるシャコやエビの上にかぶる。そしたら、エビやシャコは死んでまうわな。頭から鉄かぶせられるんやで、死ななしゃあ ないわねえ。まあ、そういう形で海が汚れた。現在、この広い伊勢湾でも、鈴鹿、白子付近から、だいたい名古屋のへんまで、もうほとんど伊勢湾は死んでま す。私はこれ漁師してますけど、朝3時に起きて白子より1時間も1時間半も高い燃料たいて行って、そこで、漁をして帰ってくるんやから、 ま、地図の上では広い伊勢湾やけども、この伊勢湾は、半分死んどる。要するに、人間が回復さすのには、まず、不可能かしらと今の時点で私は、そういうふう に思います。だから、今後の課題として、若い子供さんたちが、関心もって、この汚れた海をきれいにしてくれることを私らは、期待しています。

ぜんそくはどんなに苦しかったか?

これはねえ、よく私ら、どこへ行っても質問されることや。あんたたち、小児喘息やったことある人おる?
そのぜんそくになった人にたずねんるんやけどねえ、どんなふうに苦しかった?
こきゅうすんのがくるしかったやろ、 あんたたちに質問するけど、生まれてから5年生になるまでの間に 人間生きていく以上は、呼吸せなあかんのや。息吸うたり、吐いたり、 24時間ずっと呼吸するやろ、いっときたりとも休めやんのや。でも、この息を吐いたり吸うたりということをね、あんたたち、意識して呼吸したこといっぺんでもある?無意識のうちに『すー、はー』っnoda1て、 吸うたり吐いたりして、生活しとるやろ。寝とるときでも自然としとるはずなんや。でもねえ、ぜんそくになるとねえ、この吸うたり、吐いたりするのが非常に えらいの。これねえ、注射打ってもらったら直るの。注射打ってもらうまではえらいから、『これなあ、俺、死ぬまでこんな苦しい息せんならんのやったら、も う死んだろかしらんと』まず自殺した人はこれに負けて、自殺したと思うし、私は、これ、相当野暮ったい、がむしゃらな人間やったんやけど、時々、あのー、 発作がひどいときには、『俺、死ぬまで、こんな苦しいきせんならんのやろか、えらい病気やなあ。こんなえらい病気ないなあ。』と思たねえ。
ぜんそくの苦しみって一口で言うとそういう形。
だから、どういうふうに苦しかったかというと、説明、これ非常に難しいわ。そのそう(人、年れい)によって違うから。大人の私ら、その当時30歳代や。 20かん、100キロくらいのもの腕でさしあげよったけど、そのくらい力があったけど、それでも、苦しいから、玉の汗かいて苦しんだ覚えがなんべんかあ る。
そして、やっと気がついたときには、先生が注射打ってくれて、あっ、またこんで助かったんやなって思ったこともなんべんかある。
ぜんそくの苦しみって一口で言うとそういう形。

でもまあ、一つ救われることはねえ。塩浜病院ていう空気清浄病室に入院しとるからね、そこへ入って、発作止めの注射打ってもらろて、打ってもらうと5分も せんうちに息できるんや。だからねえ、これ助かったわと思てねえ、苦しい中にもおさえる注射があったから、私ら救われたし、そいで、ある程度、楽観しとっ たというのもある。苦しいのには違いないけどね。でも、手や足切って、痛い痛いというとるんじゃなくて、注射を打ってもうたら、直ってくというそういうこ ともあったから、まあまあ苦しみのなかでも救われることがあったかなあ。

仕事ができなかったときの気持ちは?

大人にならなわからんと思うけどもね、私は、一応、家庭人やで家庭を持って女房や兄弟をやしなって生活しとったんやで、仕事ができやんとなると、これ非常 に寂しい。ほんでねえ、なぜ、おいらはこんにね苦しめられて、仕事ができやんのやってまず第一番目に思う。その気持ちを教えてくれといわれると、今では、 遠い過去のことのように思われるけど、なんかねえ、目の先が真っ暗になってねえ、これは、いったいどうしたことや。俺の一生しまいかいなと、これ、ぜんそ くで苦しめられて仕事ができやん、苦しめられて、こんな病院で生活せんならんなあ、俺の一生は終わりかいなと思た。まあまあ、それにつきるねえ。だから、 そのときの気持ちっていうたら、これもたとえようがないなあ。
これはみなさんが大人になったら分かると思うけどね。そういうあの、・・・この気持ちは、苦しいときやなけりゃ分からんと思う。

どれほど毎日が大変だったか?

これはねえ、私らねえ、あの、四日市とかねえ、行政の方が一番先ばなやったかな。だからねえ、公害でくるしんどる人はねえ、あの、治療だけは受けな さいよと、面倒はみてやるという形でねえ。やってくれた。だからねえ、治療はできる、ぜんそくのね。でも、生活の面倒まではしらんと、これは今でいう社会 福祉の人がねえ、わたしんところへ調べにきてねえ、生活保護うけんのに、おまえらこれどんな生活しとんのや、ちゅうようなこというてきた。だけど、私はそ んとき、なにいうとんのやと、わしらをこんな病気にさせといてやなあ、・・・・昔の漁師だってなあ、おまえら役人の世話になる必要ないのやしなあ、おれは する気にはなれやんと、おまえら勝手に福祉で生活みたるっていうんやったら、おまえら勝手に調べてけ、おれはそんなん受けたい人間やないわい。そんなん、 あてにしとらんわってねえ、福祉の人追い返した覚えがあります。

だ からねえ、この病院に行ったらねえ、病気は、助かるんやから、注射を打って直るし、そして、幸いにして漁師やもんでねえ、この伊勢湾の南の方に行ったり、 広い海に行けば、空気が正常であるから、そこで、仕事するには、なんの支障もおこさんし、私らも今まで通り仕事できるから、先生たのむで仕事さしてくれ、 うちのもの養っていくのに生活できやんやないかということで、当時の先生の了解を得て、そして、朝三時になると看護婦さんに起こしてもらって、病院のベッ トから抜け出して、うちへ帰って、うちの女房に弁当作ってもらって、それを持って、船に乗って、漁に出ていた。そして、夕方まで働いて、帰ってくる。うち へ行って、風呂に入って、晩飯食べて、やれやれと思う。先ほど、昼間は漁に出るというたけど、日中は、硫酸や亜硫酸ガスやそんなもんは、上へいっとるけど も、空気が冷えたりなんかすると下がってくるんかなあ。だからねえ、(発作は)朝晩に多いんや。この土地の人はねえ、会社ちゅうのは、昼中はある程度そう いうものださんといて、夜になるとそういうもの出すというねえ、そういう偏見か事実かしらんけども、そういう言い方をされとった。そして、やっぱりねえ、 事実夜中とか夜明けとかが発作が多かった。だから、仕事から帰ってきて、体休めると発作が出る。これはもう家では寝られやんわとほいで、病院飛んでいっ て、今は健康センターになっとるけど、空気清浄室っていってねえ、これぐらいの部屋で、12人くらいおったかなあ、本当は6人(部屋)ですけど、場所は、 これぐらいにすっと、12人くらい住めたわねえ、空気清浄室ってねえ、浄化したきれいな空気があってねえ、きれいな空気のなかで私ら守られとる、安心して 寝られるわけ、そうして、夜が明けるとまた、看護婦さんに起こしてもらって漁に出ていったと。だから、そういう形で仕事に行くことができたといえるわね。

まあ、毎日がどれほど大変だったかというと、まずはねえ、一般の人は、土曜日、日曜日というと、家族を連れて遊んだりなんかしたけど、私らは、昭和 30年代後半から40年代というのはねえ、24時間何にもなかった。ただ、病室と家の往復でね、このまま終わったら死んでいくしかない。死ぬのをまっとる だけやけど、でも、このまま死んではいけやんし、かというて、家族を守る義務もあるし、悲壮感というかそういうねえ、先の見えやん暗い生活がねえ、約十年 以上続いたかな?だから、裁判に訴えたということもいえるやろう。

工場や企業や行政にどんな気持ちでいたか?

昔私らが生まれたときは、ここは田園地帯で、百姓と漁師が生活しとってさ、だからねえ、公害というものは何にもなかったんやね。ところがねえ、工場 ができたわけ、この工場ができた時点ではねえ、私らこの地域の人は、非常に喜んだ。大きな工場ができるんやないか。日本の中心になる三菱やそんなんがきて くれて、大きな工場を造ってくれるんやと、こりゃあ、四日市も大都会になるんやと喜んだけど。でも、その当時、 この工場の建設に携わった外国の技師の人がねえ、『あんたたち極端に喜ぶけれども、工場できたらこの土地で生活できへんぞ。』『なにいうとんのやおまえ』 ていうたらねえ、『ほんとにねえ、こういう工場っていうのは、アラビアの原野で石油を精製しとった工場をそのまま持ってきとったらたいへんやから、こんな もん人が住んどる真ん中にきて建ったら、周りの人は住んでおれるのか』と、『そんなばかなことあっかあ、これは、あのひとのやっかみや』ってねえ、私らい うとった。鼻で笑わらっとった。
でも、4,5年先には、こうやって、公害が現れてきた。ところが、私らぜんそくになる、何にもなかったところにこんな公害が出てくるっていうことは、工場 や。そいで、自治会にいうて、工場に訴えに行ったら、『うちじゃない』また次の会社に行ったら、『うちじゃない』次の会社に行っても『うちじゃない』そう いったら、いったいどこやと、ねえ、私そのときに非常に残念に思ったことはねえ、『うちじゃない』ということはねえ、『俺じゃない、おまえだ』ということ といっしょや。罪を人になすり合いするその根性にねえ、本当に私は頭にかちんときた。『よしそうかおまえらそんな気持ちか』と。
そいで、今度は、行政に行った。『こんな、俺しらん、工場のいうとることは俺は、しらん。国の規制をちゃんとまもっとる工場が操業しとんのやから、俺はし らん』と。『ほんとにいったいどこへ行ったらええのや。俺は知らん、俺は知らん。』そうこうして悩んでおるときに、ここに居る澤井さんとかそういう善良な 人に、『おまえら、そんなにくるしんどんのやけど、こういう助かる道があるんやぞ。』と法律があるから、その法律に照らし合わせてみなさいと言われて、そ うかと、どうせあかんもんならな、いっぺん裁判、日本の国に法律があったら裁判に問おうじゃないかと、まあ、そういうようなことで、裁判を起こす気になっ たから・・・・・・

裁判に踏み切ったときの気持ちと裁判をしていくときの苦労は?

そういう矛盾したなかで、私らがねえ、生きていくためには、この道しかないやないかと、もしな、裁判に負けてもええやないかと、裁判に負けたらしょうがな いやないかと、だからねえ、地域の方は、大きな日本の国を相手にして三菱やこんなんを相手にして、そんなん勝てるかと、みんなせせら笑っとった。 でも、私らとしてはねえ、 この方法しかないやないかとね。これ、選ばなしゃあないわね。まあ、こういう気持ちでねえ。裁判起こした時点では、裁判に勝てるという気持ちは、これっ ぽっちもなかった。だからねえ、はっきりいうて私らも意地としてねえ、裁判の最中で、企業が『俺んところかもわからん、俺が悪かったな』という、一言わび が入ったら、裁判を取り消したかもしれんしね。まあ、そんな中で、裁判が進んでって、まあ、なんていうか、まわりの人らが裁判を進めてくれたから、私らで は、そんなことできへんからな。だから、そういう形で裁判を闘ってきた。だから、裁判に協力してくれた人たちには、いまだかつて、頭が上がらん、はっきり 言って。でも、この人たちが、何がためにこうしてくれたかと言われると、その当時としては、おせっかいかおひとよしとしか私は思わんだ。でもね、今思うと その人らはね、このまま大事な地球をね、人間のエゴで勝手に汚していくやないかというね、そういう危機感に立ってね、考え、これはやっぴし、頭がある人ら は違う。我々の知恵やったら、このまま地球を汚し続けて、近い将来、地球は滅びてしまうかも分からん。でも、ええときに立て直してくれた。環境基準を守る ように法律も作ってくれた。そして、企業もこんなに古い煙突ではあかん。高い煙突作れ、なにせえというてね、何千億という莫大なお金をかけた。だからね、 裁判の判決としては、私らに対して、一人あたり五百万、一千万と、考えてみれば、自分の命の値段としては、あまりにも安い金額ではあったけれど、でも、企 業がかけたお金のことや、地球改善に向かって整理が進められたということは、大きな意味があったなと、だからやっぱし、支援してくれた人は、こういうとこ まで考えとったなあと、今つくづく私は思います。
そして、今この子どもさんたちの前で大きな顔して言えるのは、もしあんたたちがこんなしんどい環境におうたときには、負けやんと私らみたいにがんばってく れ。それで、今の子どもさんたちがわしらといっしょの道を進まんとも限らん。でも、こんなことしたらね、この二つとない地球は滅びるやろ。ねえ、私いっつ も笑うのやけど、くさい魚っていうてもこのとおりや、人間空気がくさいだけでも、小言いうて裁判起こすのにね、死んでいかんならんこのくさい魚の例にとっ てみても、もし、魚が裁判を起こす権利があったら、人間は死刑やろ。『おら、天然ですんどったのに、住めやんようにしたやないか』と、もし、説教されたら そんなこともあったやろうと思う。だからね、これは、今でもよく言われるけども、戦争で負けた日本が今日にあるということは、先進国の仲間入りできたとい うことは、こういう犠牲があったから、なった、と言われる人も多いけども、そりゃ、確かにそうやろう。当時私ら、食いもんもほんとにあらへんだし、着るも んも着やんだ、だから、海を汚したらいかんという、一番自然の中で生きとるわたしらがね、洗剤をつこて、平気で洗剤の水を海に流すでね。これは、生活悪 や。だからな、そういうことやいろんなことを考えると、もしこの子どもたちにこの公害ということについてどういうふうにいうたらええかと言われるけどね え、そうねえ、この裁判を起こすときの気持ちとか裁判をしていくときの苦労というのはね、そこまでは考えやんだけども、今思うと、そういうメリットがあっ たでこそ、裁判は勝てたんかな・・・やっぱし司法の中にもそういうものを工夫しとる人もおったし、我々みたいにもし、ふびんなものを救うために、この裁 判、勝てたんかというと決してそうじゃない。だから、日本の政治が、経済が発展するために、無理矢理進めたという政治であったから、直すために、この日本 を助けてくれたとも考えられる。そういう意味においては、四日市は公害裁判の原点とか何とかと言われるけど、でも、私らとしては、そんなたいそれた夢を 持ってやった裁判でもないし、ただ自分が助かりたいために、このままおっても死んでくやないかという中で、この裁判を起こしたいうようなわけであるから、 一般の遠い地域の人たちが評価してくれるような私らは英雄でもないし、良心があったというわけでもなかった。まっ、でも、今、そういう観点からみれば、 やっぱりそういうこともあったかなあとも思いますねえ。だから、裁判に協力してくれた人には、私ら終生頭が上がらん。

裁判に協力してくれないまわりの人、親戚の人には、どんな気持ちでいましたか?

自分が助かる以上は、人が死んでいくのはやむをえんやろう、これは、漁師町のねえ、ルールとしてね、『隣が苦しめば、自分がもうかる』というねえ、 これは漁師町のルールであるから、だから、隣が苦しんどるのぐらい、、まあ、俺も考えやんだし、親戚もそうだったかもしれん、でも、そんな社会の中で生きてきた私らは、そんなことはあんまり認めやんだ。

裁判に勝ったときの気持ちはどんなだったか?

当時はねえ、裁判に勝ったと、助かったという気持ちじゃなくてねえ、やれやれ、おいらの言い分にやっと認められたなと、こんによくなるとは思わんか らね、『助かった』というねえ、意識はまだなかった。でも、おいらの言い分もとおるんやなと、だからな、これ、やっぱし、大学の先生たちが、口を酸っぱく して言うな、『裁判して良かったなあ』、『やっとこの裁判のために、おいらの言い分も通ったんやなあ』と、当時はそう思いました。
でも、20年たち、30年たつと、今、30年たった今日、みなさんの前で私は、大きな顔をして、とてもこんな元気な姿で、みなさんに話すなんて、私は夢にも思っとらんだ。
だから、今、はっきり言えることは、協力してくれた人らに、 『助けてくれてありがとう』と言いたいのが私の本心です。だから、今もって、支援団体の方たちは、わたしらの命の恩人やということを、肝に銘じて忘れやん気持ちでおります。

余談になるけどねえ・・・

私らこの小学校から、うちに帰るのにねえ、鈴鹿川を渡って帰るんや。7月のねえ、産卵期になるとねえ、こんな、カニやカレーがねえ、川で踊っとる。 それを学校の帰り、5年生くらいっていうたら、あんたらぐらいや。パンツ一枚になって、川ん中、そんなもん、カニを5,6っぴきとってさ。『おい、おっか あ、こんばんのおかず炊いてくれ』って言って、カニやカレーを炊いて食ったことある。
あんたら、カニやカレーって食ったことあらへんやろ。おいしいのやで、あんたら、ハンバーグや何たらばっかりくっとったら、そんなん、丈夫な子にならへんぞ。
「おいしいよ。カレー」
「ほう、でも、生きたこんなカニ、食ったことあらへんやろ?そんなカニが捕れたんやで。」
「躍り食いせなあかん?」
「そうや、躍り食いせんならんだ。そんなな、 日本の国っていうのうは、そんなええ国やったんや。このまま会社にしておくと、また地球を壊してしまう。地球を壊してしもうたら、猛毒マスクはめて勉強せ んならんなんて、あんたらの子どもがそうな目にあったら、はりあいないやろう。なっ、学校から帰ってきたら、セミとったり、トンボとったり、お前ら、クワ ガタ買うやろう、クワガタやカブトムシ買うやろう、そんなん買わんでもいっぱいおるんやで。」
「おるよ。」
「おう、あんたとこおるやろう、でも、今、ここ探そうと思てもおらへんやないか。 それも、公害のためやで。なっ、これ、ここ、ずーっと大きな松林やったんやで。大きなこんな松が枯れたんやで、公害で。公害って、そんな恐ろしいもんや で。なっ、だから、お前ら、おじさんの話聞いてな、自分の小学校の近くで、こんな話が出たら、絶対反対せなあかんのやに。まあ、ひとりでも分かってくれ りゃええけど・・・。」
「うん、分かってる。」
「まあ、そういうことやで。」
「ありがとうございました。」

雑談へ

・・・「おじいちゃんと、いっしょ・・・・」
「おじさんもう70歳やで」
「裁判の時は何歳やった。」
「裁判の時は、30くらいや、あんたらのお父さんと同じくらいやろ?ちゃうか」
「40くらい。」
「ああ、そうか。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

3月24日(木)塩浜小学校と磯津で、若手メンバーによる「四日市公害スタディーツアー」が行われた。
現在、語り部として中心となり活躍されているのは、原告患者の野田さんや支援者の沢井さん、山本さんの3人である。市民塾では、語り部講座などを開催していたが、語り部の育成が急務になっている。
そこで、市民塾若手メンバーが企画した今回のツアーは、四日市公害を直接体験していない世代による新たな試みとして、注目されるものである。このツアーに対する考えや今後については、若手メンバーが発行する『なたね通信』に詳しく書かれている。

四日市公害の負の遺産のイメージ払拭ばかりに気にしてきた行政側の対応は、公害の語り部の高齢化を招き、語り部の育成を市民塾任せにしてきたという一面がある。今回の取り組みは、四日市公害の教訓を新たな世代が引き継いでいこうという試みである。若手メンバーの今後の活躍に期待し、語り部の新たな育成という課題を克服していきたいと思う。

 

 

2009年

語り部をした学校等

場所

6月 三重県立看護大学 1年生8名 四日市環境学習センター
  三泗小学校社会科研究会 四日市環境学習センター
7月 四日市市立楠小学校 3年生4クラス 昭和四日市石油原油タンク基地付近
  地域環境リーダー養成講座 20名 四日市市環境学習センター
  韓国梨花女子大学 教授と学生11名 四日市環境学習センター
9月 伊賀市立友生小学校 5年生3クラス 磯津、塩浜小学校
  伊賀市立依那古小・神戸小学校 合同5年生 磯津、塩浜小学校
10月 名張市立比奈知小学校 5年生 四日市市環境学習センター
  山梨大学生 四日市環境学習センター
  亀山市立川崎小学校5年生 68名 磯津、塩浜小学校
  伊賀市立丸柱小学校 5年生13名 四日市市環境学習センター
  伊賀市立上野東小学校 5年生3クラス 磯津、塩浜小学校
  津市立榊原小学校 5年生16名 磯津、塩浜小学校
  伊賀市立玉滝・河合・鞆田小学校合同 磯津、塩浜小学校
11月 四日市市立内部小学校 5年生 四日市市環境学習センター
  四日市市立保々小学校 5年生 磯津、塩浜小学校
  伊賀市立久米小学校 5年生29名 磯津、塩浜小学校
  滋賀県草津市立老上小学校 5年生4クラス 磯津、塩浜小学校
  福岡県筑紫野同和教育研究会40名 塩浜駅から塩浜小学校で
12月 四日市市立日永小学校 5年生100名 学校で
1月 四日市市立塩浜小学校 学校で
2月 四日市市立大矢知興譲小学校5年生 学校で
  伊賀市立友生小学校 5年生3クラス 学校で
  津市立川合小学校 5年生3クラス 学校で
  津市立初瀬小学校 5・4年生と保護者 学校で
3月 四日市市立富田小学校 5年生3クラス 学校で
  四日市市立海蔵小学校 5年生4クラス 塩浜小学校
  四日市公害を学ぶスタディツアー 環境学習センター、磯津、塩浜小学校