「四日市ぜんそく」について小学生からよく尋ねられる質問です。
コンビナートが広がってどんなことが起こりましたか?
原因不明の【塩浜ぜんそく】と呼ばれる病気が出始めました.第2コンビナートが運転をはじめた1963年以降は、発病地区が広がって【四日市ぜんそく】にかかる人(お年よりと子供が多い)が増えました。
磯津の漁師が「工場がきたので、税金がたくさん入り、市は発展したかもしれないが、市民のわしらは、ぜんそくにかかり、漁にも行かれず、入院せんならん」となげいていました。
四日市ぜんそくが広がっていたとき、四日市の空はどんな様子でしたか?
霧のような、少し先も見えにくいようなスモッグが立ちこめることがよくありました。
夜、鈴鹿の山々のほうから四日市をながめると、四日市の町がすっぽりとガスのかさでおおわれているのがよくわかりました。町中では見えない星も、山のほうで空をながめると、たくさんの星が見え、星ってこんなにたくさんあるものかと思ったことがあります。
四日市ぜんそくが広がったとき、四日市の海はどんな様子でしたか?
第1コンビナート(内陸もふくめ)工場はい水は、四日市港へ流されます。生物ゼロといわれるほどの汚い海になり、七色といえばきれいな虹を想像しますが、どろどろした色、油が浮くなど、海のにおいのしない悪臭の海でした。
中部電力三重火力発電所は、その海水を発電機を冷やすのに使ったあと、反対側の鈴鹿川へ流したので、磯津近辺の魚がくさくなる、奇形になる、いなくなるなどのようなことがありました。
磯津の漁師たちが鈴鹿川へ流さないでほしいとうったえましたが、聞き入れてもらえませんでした。
四日市の空にコンビナートの煙が広がったとき、どう思いましたか?
ぜんそくが出始めたころから、煙の中にふくまれている亜硫酸ガス(二酸化イオウ)が、ぜんそくを引き起こす悪いガスと知られるようになりました。
「えんとつにふたをしてやりたい」と作文に書く小学生もいました。
煙突の高さはどれぐらいでしたか?
1955年に石炭を燃料として運転をはじめた三重火力発電所の煙突は、57.3メートルで、その後に作られた昭和四日市石油などはこれよりもひくい煙突でした。(1963年に運転をはじめた四日市火力は、最初から120メートル)
1963年秋、国の調査団が四日市へきて、煙突をもっと高くしなさいといいました。
それで、1965年ころから各工場とも100,120,150,200メートルと高い煙突をつくり、ガスを広い地域にばらまくことによって、工場に近いところをうすくするようにしました。しかし、工場から出すガスの量をへらさなかったので、このことがかえって、ぜんそくを広めることにもなったのでした。
ぜんそくのとき、外へ出てもだいじょうぶだったのですか?
ガスでおそわれないかぎりは、だいじょうぶとまではいきませんが、まあ、健康の人と見かけは変わりません。
塩浜病院に入院していた漁師の患者さんは、朝早く、伊勢湾の沖合いへ漁に出かけます。ガスがこないかぎり一日働いていて、夜は病院〔空気せいじょう病室〕で寝ます。外へ行くときは必ずといっていいほど、ぜんそく止めのけいたい用吸入器を持っていきます。
四日市ぜんそくにかかった人は何人ぐらいいましたか?
公害認定患者の年度別数でいくと、1975年(昭和50年)1140人でピークとなっています。この数は、新規患者数、認定取り消し、死亡者数などの現在数ですから、認定になった患者数はこれよりもずっと多い。また、認定を申しこまなかった患者もいるわけで、もっともっと多くの人数になります。
四日市ぜんそくにかかって、つらかったことはどんなことですか?
四日市ぜんそくになってみないことには本当のつらさは、わからないと言います。患者の小学生が発作が起きて苦しむと、たんすやふすまをひっかいたり、しがみついたり、「かあちゃん、殺して!」「死にたいわ」と苦しみます。つらいことを通り越しています。
また、ぜんそくがうつるであの子と遊んだらいかんと、友達のお母さんがその子に言ったり、『セキゴン』とともだちにからかわれることもありました。
大人の場合でも、入院患者がベットから落ち、『助けてくれ』って一言いって死んでしまいました。
ある人が「悪いこともしてないのに、なぜ、助けてくれって死なんならん、わしもそんな目にあうのかと思うと情けなくなる」となげいていました。