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判決直後の四日市は・・・・・・・・。

2011_10160033四日市公害訴訟判決から来年で40周年というわけです。「提訴」からだと45年。さらに「公害発生」までさかのぼれば50年にもなります。そして今ようやく「資料館」へたどり着こうとしているわけです。ところで判決直後の四日市はどんなだったのでしょう。資料館への準備と言うことで自分の新聞スクラップ帳を整理しだしているのですが、いくつか拾い出してみます。1972(昭和47)年に磯津患者による直接交渉が一段落ついて、今度は「公害防止磯津住民会議」が結成され、磯津地区への環境破壊の責任を認め謝罪し、過去の被害について補償せよと被告6社に求めています。さらに四日市市橋北地区の公害患者の会は第2コンビナートとの交渉を要求し抗議行動に出ています。それらの動きに対応するかのようにして「公害対策協力財団」構想が商工会議所を中心に推し進められていきます。「財団」を巡っては患者の会が商工会議所に泊まり込んだりして抗議を続けています。
しかし、一方でこうした流れに背を向けるようにして「四日市公害訴訟を支持する会」が「発展的に解消」され、以後二つの組織ができますが、ほとんど運動らしい運動もないままに消えていきます。磯津の交渉や橋北あるいは財団交渉は基本的に2011_10160034企業側の巻き返しであり、患者・住民側にとって厳しい展開となりました。判決翌年の1973年のことです。新聞記事をチェックするだけでも相当な勉強になります。こうした歴史を一つ一つ見直していくことも「資料館」の役目と思います。
付け加えますと、この年5月四日市公害と直接の関係はないのですが隣の員弁郡(現いなべ市)藤原町で住民が小野田(現太平洋)セメントを相手取って訴訟を提起しています。しかし、四日市の人たちの関心はあまり高くはなかったようです。


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