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-公害四日市の今について考える-
澤井余志郎

はじめに

 油くさい魚と四日市ぜんそくに代表される“四日市公害(被害)”が発生したのが1960年(昭和35年),それから数えて50年の半世紀が経つ。
 四日市公害事件は,四日市公害ぜんそく訴訟(裁判)に集約される。原告患者側勝訴判決は1972年(昭和47年),それから数えても40年を経過しようとしている。
 その四日市で,“四日市公害”はどうなっているのかが問われている。四大公害訴訟(裁判)では,新潟水俣病,富山イタイイタイ病,熊本水俣病は過去に汚染物質の排出で被害をこうむった事件であるが,四日市ぜんそくは汚染物質(亜硫酸ガスなど)の排出が続く現在進行公害事件で,患者側「勝訴判決」で支援者たちが“ばんざい”している向こう側で,加害工場の煙突からは,法廷で裁かれた汚染物質の煙は変わることなく排出されていて,勝訴判決報告集会で原告患者を代表して野田之一(漁師)さんは「裁判では勝ちましたが,これで公害がなくなるわけではありませんので,公害がなくなったときに“ありがとう”の挨拶をさせてもらいます」と,とりようによっては不遜とさえ聞こえる挨拶を支援者たちにあえて行った。

 四日市ぜんそく訴訟は,操業差しどめ請求では長期化・却下のおそれもあり,四日市公害訴訟弁護団は次の「意見」を表明,現在進行の公害に対処した。
 死者まで出しながら,四日市市は第3コンビナートづくりを進めている。
 憲法25条(国民の生存権)は,亜硫酸ガスのなかで死んでいる。その責任を誰も負うことなく被害が進行している。この無責任状態にまず終止符をうたせよう。現実の被害に対し,一刻も早く,直接の加害者企業から,当然の賠償をさせることによって,もって行き場のない混沌の中に責任追及の一筋の道を切り開こう。最も素朴かつ単純な,直接の加害者への不法行為責任の追及という闘いを通して,国や自治体の施策の根本も盤上に上らざるをえなくなるだろう。
 つまり,裁判勝訴で解決する公害ではなない,患者にさせられた被害者が,加害者はコンビナート工場であることを判決で勝ち取り,市民運動を強化して,公害患者全体の救済と,公害発生源への規制強化を国・自治体に要求・実現する「損害賠償等請求事件」であった。
 勝訴判決後の記者会見で,記者団から「勝訴判決をもらって,なにが一番うれしかったか」と問われた野田原告は,「裁判を起こす前,工場へぜんそくになるような悪いガスを出さんでくれ……って言いに行ったら,うちじやない隣の工場かもしれんと,6社とも言い,市・県へ言いに行ったら行政としてはどうにもならんって,みんな,うちじゃないと言う。それで裁判で白黒をつけてもらおうとなった。今日の判決で,うちじやないと言っていた工場が加害者だとはっきり言ってくれた,今日からは堂々と公害をなくせと言える,それが一番嬉しい」と,満面の笑みで答えていた。
 だが,この野田原告患者のメッセージは届かなかった。公害訴訟を支持する会に結集した支援者たちは勝訴をめざしての支援の目的を果たし,ばんざいと両手をあげて祝い,その明くる日から消えていき,判決を武器に公害根絶をめざす市民運動は急速に潰え去って行った。

公害の改善

 四日市公害ぜんそく裁判は提訴から5年後の1972年(昭和47年)7月24日,津地方裁判所四日市支部第1号法廷で,原告患者側勝訴の判決をくだした。判決は裁判長の名前をつけ「米本(清)判決」と患者側は呼んだ。その日,新聞社は号外を配り,夕刊は一斉に加害企業敗訴をデカデカと報じ,判決日だけでなく何日かコンビナート悪者論の記事が続き,資本主義が倒れるのではないかとさえ思うほどであった。
 当時の田中角栄首相は,この判決で,行政は被告にはなっていないが,産業育成政策を反省?判決が「住宅に隣接して工場を建設した過失」を指摘したことをうけ,急きょ工場建設は20乃至25%の緩衝地帯を設けることなどを盛り込んだ「工場立地法」を制定。損害賠償判決に対応しての「公害健康被害補償法(公健法)」も制定するなど公害行政転換があり,三重県は判決前に企業側敗訴と工場誘致の責任を問われることを予測,国に先駆け「硫黄酸化物総量規制」を実施した。
 裁判で争われた硫黄酸化物の環境基準は,県の総量規制実施で,工場は低硫黄重油燃料使用,排煙脱硫装置取り付け,高煙突化などによって,1976年(昭和51年)に環境基準を達成した。
 ぜんそく裁判では,硫黄酸化物だけでなく窒素酸化物もぜんそくをひきおこす有害物質であることは分かっていたが,硫黄酸化物だけでも勝てる……,ともかく「一刻も早く,この無責任状態に終止符をうたせよう」との戦術をとり,5年間という他地区の大気汚染公害裁判よりも短期間に「勝訴判決」を勝ちとった。
 ただ,この戦術は,行政・企業だけでなく,被害者側にも,これで公害は治まった,改善した,終結・克服したとの思いや,主張がなされるようになった。
 この間隙をとらえ,経済団体連合会(経団連)は,大気汚染はなくなった,なのに公害患者が発生するのは公健法に認定制度があるからだと,四日市で公害裁判提起と勝訴に貢献した市議と学者に「四日市はよみがえった」と語らせ,1988年(昭和63年)2月をもって認定制度を廃止してしまった。四日市でも特にひどい公害被害をうけた磯津地区では,2月までは公害ぜんそくで,3月にぜんそくになった患者は「わしは公害ぜんそくではないっていうが,なんのぜんそく患者だと言うのか……」と嘆いていた。
 認定廃止から20年余の現在でも,磯津地区では,ぜんそく患者が発生している。酸素吸入なしでは生きられない患者もいて,その患者は障害者手帳を交付され,医療費だけが免除されている。この間にぜんそくで亡くなった未認定ぜんそく患者もいる。
 四日市公害は,市民運動でと言うより,公害裁判勝訴判決で「改善」をみた。だが,「克服」とは言えない。公害認定患者は認定制度実施中だけで2216人 ただし,この患者数は国民健康保険加入者で,共済・組合健保加入者は医療費自己負担はなかったり,会社に遠慮して認定申請しなかったりで,四日市医師会は「四日市ぜんそく患者は認定患者の3倍は居る」と言っていて,このなかには自殺した患者が,分かっているだけで5人いる。国内41の大気汚染地域のなか,四日市以外の地域で自殺した患者がおられることは聞いていない。
 現在四日市では公害被害者の認定患者が450人も居る。なかには,高齢化で,ぜんそくだけでなく重篤化していて家中に酸素管を張り巡らしているとか,副作用で苦しんでいる患者もいる。
 なによりも,公害裁判当時と同じように,公害発生源である火力発電所と石油化学コンビナート工場は肥大化しながら存在している。
 行政や企業,市民運動指導者や学者のなかにも,「公害は終わった」と言い,市民も終わったと思いこんでいる。公害発生源への関心や監視がない状態の中,有害物質(放射能・六価クロムなど)を含む産業廃棄物に三重県は2003年(平成15年)「リサイクル商品」との認定を与え,京都・岐阜・愛知・三重の1府3県下に堂々と販売,巨額の利益をあげた石原産業四日市工場,(廃棄先の岐阜・愛知の市民運動団体の告発にあい,三重県はリサイクル商品認定を外し,工場は搬入先から産廃・フェロシルトを回収,工場内の空き地に積み上げた)またこの工場は産廃不法投棄だけでなく,住民に知られたら反対に遭うからとこっそりホスゲンという第一次世界大戦で使用された毒ガスの製造機を設置,操業していたり,汚水排水,汚染物質排出もするなどしていた。また,三菱化学四日市事業所では,子会社に汚染データの改ざんを指示していたことも内部告発で判明したり,爆発事故を起こし付近住民を震いあがらせてもいる。そのほか,2005年(平成17年)には,市内大矢知地区の産業廃棄物が不法投棄も含め国内最大規模であることを三重県が発表した。
 これらは,市民運動が欠如していることはもちろんであるが,市民の,コンビナート工場への関心・監視がないことから,行政も,工場も,緊張状態が保たれていないからにほかならない。これらは,住民と工場と行政との三角関係の三者が適度の緊張関係を保つことと,工場・行政の情報公開・開示があってこうした不祥事をなくすことができる。それらがないところでこうした不祥事がおきている。
 住民の関心・監視については,公害裁判以降も“コンビナートは公害発生源である”ことを認識し続けることである。そうすることによって,行政は規制をサボルわけにはいかないし,住民の後押しで工場に対処せざるをえない。工場も法令遵守を口先だけでなく確実に履行せざるを得なくなる。

二つの公害裁判

 いぜんとして火力と石油化学コンビナート工場,それに東芝ハイテクでは最大の四日市工場が存在する四日市は,これらから目を離すわけにはいかない。関心と監視が必要である。
 これについては,なによりも,過去の公害,なかでも「四日市ぜんそく公害裁判」と,くさい魚・奇形魚を発生させた原因となる,無処理でたれ流していた汚水,日本アエロジル四日市工場の廃塩酸排水があり,石原産業四日市工場については桁違いの廃硫酸1日20万トン(摘発までに1億トン)の工場排水があり,公害取り締まりの官庁ではない四日市海上保安部(田尻宗昭警備救難課長)が摘発,津検察庁へ送検したが,石原産業起訴を見送る処置に反発,田尻さんが身分を失うことも覚悟,押収資料を当時の社会党石橋政嗣書記長のもとに持ち込み,レクチャー。衆議院予算委員会で佐藤内閣に爆弾質問。このため時効寸前に津地検が起訴,発覚以後10年の歳月を経て,被告石原産業の四日市工場長2名に執行猶予つきの懲役刑,会社に罰金8万円(当時の刑法での最高金額)の有罪判決が下された。1億トン以上の大量排水でたったの8万円という低額だが,有罪には違いなく,この事件を契機に,ぜんそく裁判同様,排水についての法規制・基準強化などがはかられた。 石原産業については後日譚がある。産廃を「埋め戻し材フェロシルト」との商品名で,三重県のリサイクル商品の認定を受け,1トン150円で販売,購入した業者に運搬・研究費などの名目で3千円を渡す逆有償行為をしていたことも発覚,会社・工場幹部は,廃硫酸たれ流し刑事事件有罪の経験を学び(悪用),いち早く証拠書類を始末,社長・工場長は「捺印はめくら判,私らは事務やだから現場のことは知らない,副工場長が一人で勝手にやった」と言い張り起訴を免れ,とどのつまり,副工場長が懲役刑の有罪判決で現在服役している。
 四日市公害の歴史の中で,民事「四日市ぜんそく公害訴訟」と,刑事「石原産業廃硫酸たれ流し裁判」は,ことの本質をもっとも明らかにしてくれるもので,学ばなければならない事件である。

いま四日市では

 行政は依然として,「四日市公害は終わった」として,“公害イメージ払拭”に努めている。昨年(2010年)四日市市長は上京,文部科学省と教科書協会を訪れ,「教科書に,四日市公害はなくなったとの記述」をするよう要請している。四日市では今でも公害があり,ぜんそく患者が多数出ている……というように受け止められているのは心外。工場誘致にも障害となっている……,というわけである。
 市民の間でも,他所へ行ったとき,公害で大変ですねと言われいやな思いにさせられた。あるいは,「四日市へ行くことになったと言ったら,四日市ぜんそくにならんようにねと心配してくれた。四日市に来てみたら別にどうってなかった。ただ,四日市公害はどうなっているか知りたくて公害資料館を探したがなかった」
 いやな思いにさせられた市民は,「公害は……」と言われ,あるいは聞かれて,どう答えていただろうか。いやな思いは,公害についての知識があれば,いやな思いなどもなく,これこれしかじかと相手に納得してもらえるのにと思う。
 しかし,改善をみた「四日市公害=ぜんそく・くさい魚」について「知る」ために市民がそれを「知る」機会があるだろうかと思うとき,公害資料館があればと思う。

 いま,四日市では,県内外の小学校5年生が,総合学習で,「工業の発達と公害」とか「公害と人権」の学習で,四日市現地に来る。四日市再生「公害市民塾」がボランティアで“語りべ”をしている。(市内の小学校については,県内もふくめて,その学校へ出かけてもいる)そうしたとき,数年前までは,小学校へ行くと,学校長が「公害裁判の傍聴券とりの教組動員で朝早く裁判所へ行って並びました」と言っていたが,それ以後の学校長世代は,公害裁判についての知識はない。ましてや教員は「学生の頃,新聞やテレビで見たような記憶がある程度で知らないです」と言う。
 昨年も,教職員学習研修会が四日市市環境学習センターであったが,受講した教員の感想のなかに,知らなかったことと,知ることの文章があった。
  
  □ 四日市公害について,あまり知らないという自覚はありましたが,これほどまでとは……。まず,状況として,大気汚染ではなく,水質汚濁(魚の被害)からあらわれたことすら,知りませんでした。他にも,初めて知ったことが大変多く,とても勉強になりました。一度,磯津の方へも足を運んでみたいと思います。あと,今日語りべをしてくれた3人の方(注:野田原告患者・漁師ほか)の志の高さにも感動。こういう方がみえないと,過去のこととしてほうむられてしまいます。ぜひ資料館を実現させましょう。記録を残すことも大切ですね。今日のデスクワーク+磯津・塩浜小学校見学(フィルドワーク),この2つがセットになっていれば,いいなあと思いました。
  
  □ 四日市に住んでいながら「四日市公害のことはあまり知らない」という方が多くいる。「負の遺産」「公害のイメージ解消」とよく言われるが,「知らない」ことのイメージを払拭することはできません。今回のような学習会はとても大切だと思います。新任の先生方の「初任者研修」として位置づけてほしいと強く思います。

「知らない」「知ること」では,昨年三菱化学の汚染データ改ざんで四日市事業所に市民塾メンバーで出かけ,所長以下幹部社員に会い抗議したさい,三菱化学は(合併前,化成,油化,モンサント化成の3社),ぜんそく公害裁判での被告企業で,判決後,原告患者側に,立ち入り調査を認めるなどの「誓約書」を提出して,いまもそれは有効であるが……,と質したことに,所長以下,「私たちは裁判判決後の入社で,裁判のことは知りません。どこかに裁判関係の書類はあるんでしょうが,見たことも,あることも知りません」と,正直に,あっけらかんに言い,こちらは,しばらくの間,別世界へ来た思いにかられた。
 あの歴史的と言われる四日市公害ぜんそく裁判の当事者で,加害行為を裁かれた企業の工場トップが,その公害裁判を知らない……,ここまで風化してしまったのか,あらためて知らされた。
 その年の7月24日は,公害裁判判決38周年になる。これまでだと,5年,10年と節目の年に「公害裁判判決○○年市民集会」を開催,米本判決の意義を考え,運動に活かすようにしてきた。ところが,原告患者側だけが判決に学ぶことをやり,一方の被告企業側は「知らない」で過ごしてきている事実を知らされたわけで,はんぱな年であるが,公害裁判を知るために,市民はもちろんのこと,企業(工場)と行政(市)もともに一堂に会して裁判・判決の意義について学ぶ「公害裁判判決38周年市民集会」を開催する企画をたて,被告企業の,中部電力石原産業,昭和四日市石油,三菱化学に,野田原告患者などと,集会への参加を呼びかけに行った。そのさい,最低これだけは知っておいてほしい「四日市公害記録写真集」「新聞が語る四日市公害」と「環境再生まちづくり-四日市からの提言」の3冊を贈呈した。
 さて当日の7月24日,四日市市本町プラザのホールに,市環境保全課長ほかと,被告企業だったコンビナート4社から20名余が参加した。市民と行政・工場関係者が出席して,原告弁護団の弁護士の講演を聞き,原告患者の思いも聞くという場面が実現した。脱公害世代の原点回帰である。
 この原点回帰を今後も大事にして,ノーモア・ヨッカイチにつなげていきたいと思う。

四日市市が公害資料館を

 これも脱公害から原点回帰ととらえたい出来ごとである。
 記録が残っていることから言えば,1995年(平成7年),澤井余志郎名で,四日市市長に「公害資料館建設を」の要望書を提出している。当時は,三菱油化四日市事業所の総務部長から,市議,市助役を経て市長になった加藤寛嗣氏で,この要望は無視された。その後もことあるたびに,公害を記録する会,公害市民塾などの団体名で,建設を要望し続けて来た。
 その次の市長は,ぜんそく裁判患者側弁護士の井上哲夫さんが,大方の予想をくつがえして当選した人である。立候補前に井上さんは「公害資料館を設置する」と言いに来た。当然実現すると思ったが,市長就任12年間,「四日市市はコンビナートあっての市である,コンビナートが嫌うことは出来ない」といったことが伝わってきて,実現しなかった。

 井上さん退任後,2009年(平成21年)2人の県議会議員が立候補しての選挙となった。田中俊行候補のマニフェストに,「四日市公害の歴史学習,環境教育」といったことが掲げられていた。ほんとかなと首をかしげたが,公約に違いない,期待した。その田中候補が当選をはたし,市役所登庁を前に,選挙事務所で市民塾メンバーと,新聞記者とで会った。話は具体的で「どの程度の資料館を望んでいるのか」「予算は……」と問われたが,そこまでは考えていなかっただけにあわてた。田中市長はやるきであることを確認した。
 この市長の公約があり,先代の環境部長までは「公害資料館ができても,誰も来ませんに……」と私に言い,考えようとしなかったこととは大違いで,私がこれまで撮りためた500本のネガをデジタル化するためにと予算を組み,公害市民塾と契約した。それによって,「四日市公害記録写真集」DVD①1500コマ,②750コマのDVD2枚を完成きせた。
 それらは,四日市市環境学習センターなどでパネルにするなどして,「公害写真展」で活用している。写真の中には,ぜんそく裁判での原告患者9人の集合写真は,当時,記者クラブに頼まれ,原告患者に裁判所庭で並んでもらってのものだが,いまとなっては,新聞社・テレビ局になく,このDVDに収めれている写真が使われている。
 公害資料館での映像はこのDVDで事足りる。文書についても,公害訴訟を支持する会と,澤井資料や,三重大学医学部吉田克己教授資料があり,公害裁判資料については,コピー文書があるが,公立の資料館が出来れば,津地裁四日市支部に「永久保存」されている書証一切を払い下げしてもらうよう最高裁判所に申請すべく市と話をしている。こうして当面,公害資料館に収める,活用する材料は準備できている。

 問題は,前の市環境部長が言っていた「だれも来ませんに……」にであるが,待ちではなく積極的に呼びかけることである。
  ① 小学校5年生の社会科に「四大公害裁判」を学ぶ単元がある。そのなかに,もっとも現代の課題でもある大気汚染原点の四日市公害があり,県内外の小学校がとりあげて学習していて,これまでは公害激甚地校の市立塩浜小学校に行き,蛇口40個ついた「うがい室」で追体験をやり,展望室で道路一本へだてての第1コンビナートを眺め,教室で語りべに聞くなどの学習をしているが,いつまでも塩浜小学校に頼り切ってはいられない。毎年,こうした小学5年生の公害学習ほ20校ほどあり,公害資料館があればと思う。
   また,県外の小学校6年生の修学旅行で伊勢志摩に行くときに,5年生で学習した四日市公害を,現地で半日復習する日程を組んでもらい,公害資料館を利用すれば,学習を兼ねた修学旅行になる。
  ② 半世紀にも及ぶ「四日市公害の歴史」について,市民や保護者に接することの多い市職員,教員などの研修の場として活用する。公害の歴史のみならず,人権についても合わせて研修する。
  ③ コンビナート従業員の研修も必要である。「公害がひどいころ,公害になるような作業は避けなければいけないと努めてきた。その公害経験者のわしらが定年で居なくなった後,若い連中はどうしているやろう……」と心配している退職者がいた。工場幹部以下,従業員も脱公害世代であり,裁判まで起こされた公害について「知る」ことで,不祥事を起こさない操業に努めてもらう。
 コンビナート工場幹部の中には,公害関係のDVDを使って社員数育をやりたいということを思っている幹部社員もいることを耳にしている。

 2月11日の新聞は,新年度予算案の主な事業のなかに,「公害資料館整備」1千万円を計上3年間で2億1千万円を予定,着工をみこむ2012年は,ぜんそく患者勝訴判決から40周年にあたり,田中市長は,「行政,市民,事業者が一体となって環境改善に取り組んできたプロセスも含め,内外に広く発信したい」と意気こんでいる,と報じていた。

 このように,四日市では,公害世代から,脱世代,公害原点回帰がすすんでいて,この調子で,真の公害克服がなされていってほしいと思っている。

(澤井余志郎:四日市再生「公害市民塾」)


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