地域史の立場からみた被害者・住民運動資料保存の意義

岡田知弘(京都大学大学院経済学研究科教授)

1.はじめに

 私が四日市市史編さん事業に加わったのは、今から約10年前です.1998年3月には、四日市公害関係資料を含んだ『四日市市史』第15巻(史料編現代Ⅱ)を、発行いたしました.本日は、その編さん事業を通して私が感じたことを、いくつかお話ししてみたいと思います.参考までに公害関係の目録資料も持参いたしました.
 ところで、私は「公害のデパート」といわれた富山県の生まれです.高校生時代にイタイイタイ病の問題を学んだりして、地域原発と環境の問題を研究してみたいと思いたったわけです。現在は、地域経済論という分野を専攻しておりまして、地域の産業活動、開発政策、そして環境・公害問題の歴史分析・現状分析に取り組んでいます.

『四日市市史』の概要

 さて、『四日市市史』は、全20巻からなっています.各時代ごとに研究者で溝成される部会を置いており、私は近現代史部会に所属しています.部会の対象時期は、明治初期から始まり、1988年(昭和の終わり)までです。部会の構成員は9名で、「政治・行財政」、「産業・経済」、「社会・文化」の各分野を分担しています.私は主として農林漁業、重工業、地場産業(ここは万古焼きが有名)を担当しました.先ほど紹介した「史料編現代Ⅱ」の発刊で、史料編の刊行はすべて終わったことになります.
 1945年までを対象とした「近代I」から「近代Ⅲ」の各巻は、政治・行政編、産業・経済編、社会・文化編という通常の編さん方法で行い、まとめやすいものでした.しかし、「現代」に入る と途端に難しくなってしまいました.経斉の問題がそのまま政治の問題にはね返り、さらにそれが社会問題になってしまうことが日常化しており、各領域をバラバラにすると問題の全体像がつかめなくなるからです.その典型が、四日市公害問題でした.
 四日市のコンビナート形成は、塩浜地区でなされました.同地区で戦前に建設された海軍燃料厰が戦後売却されることによってコンビナートがつくられたという歴史があります.高度成長期に、そのコンビナートを中核にして、イオウ廃棄物が大量に排出されたわけです。最盛期には、一日平均230トンというイオウが排出されて、公害が発生しました.問題は全分野にまたがっており、政治・経済・社会という割り方では到底処理できませんでした.そこで、現代編では時代ごとに割って編集していくことにしました。「現代編I」は1960年まで、「現代編Ⅱ」は1960年から1988 年までを扱いました.
 いまひとつの難しさは、行政が行っている市史編さん事業であるということと、多くの当事者が生きているということです.資料の掲載、公表が、なんらかの形で政治問題化・社会問題化する危険性がつきまといます.これらの問題を調整し、刊行に踏み切ることができました.今後は通史編2巻の発行を残すのみで、編さん事業は最終段階に入ってきています。通史編については、現在「近代編」の担当分を書き上げたところで、公害の問題はこれから来年度にかけて扱う予定です.

『四日市市史』と公害

 部会では、現代編の目玉は公害問題であるという共通認識を当初からもっていました.そのために、市の担当者も交えて何度も議論をしました.その上で、編さん事業の中で公害を要にすえることにし、戦後史の中心テーマとしました。全体1000ページのうち、350~400ページを公害にあてました。学際的であるということで、政治学、経済学、社会運動の人々が分担して入るというやり方をとったわけです。これはこれで大変でした。何故なら、各人の問題意識が違うし、資料の読み方についても困難がありました。一番難しかったのは、自然科学的な知識を持った人がいないということでした。公害問題というのは、自然科学の知識がないと適切な分析も評価もできないわけです。編さん事業というのは、どこの自治体でも自然科学者が入るのは自然編くらいで、地質学者や地形学者はよく入っていますが、生物学者や医学関係者は入ってきません.この部分をどうカバーするかが問題になりました。そこで、裁判当時活躍された吉田克己先生(当時、三重県立医大在職、疫学的論証を行われた)を招いて、かなり濃厚な勉強会を行いました。いろいろな分野の研究者が、自然科学的な知見を勉強し、それに基づいて作業を進めました.
一方、資料収集については、主に事務局の方にお願いしてきましたが、彼らも以上のことを前提にして、方々に資料収集に出かけました。また、研究者サイドとしては、公害に関する行政資料については、すべて公開して欲しいと要望しました。この結果、私たちも自由に市役所内の文書庫に入って、あらゆる資料を見ることができました。基本的に市役所にある資料は、すべて、かなり立ち入った内容の資料まで見ることができました. {tab=4.公害資料の収集・編さん}

 本日のテーマにも関連しますが、問題は収集過程の難しさにあります.資料があまりにも分散しすぎている。しかも、四日市市内だけでなく、中央官庁のある東京や三重県内にも随分散らばっていました。市役所の中だけでも、議会サイド、担当課サイドがあります.しかも担当課は、いくつにも分かれている状態でした。四日市市の場合、都市改造もやっているので、都市計画関係(図面も含めて)も大量にありました.
 私の分担は、企業関係だけでしたが、最初の段階でピックアップしたもので1000点以上、その中で史料編に掲載できたものは20~30点です。紙幅の制約で、ほとんどのものが載せられていません。企業の方も、大気汚染では昭和四日市石油等々のコンビナート企業、硫酸を四日市港に垂れ流した水質汚染の石原産業などがあるわけですが、このような会社資料はなかなか出てきませんでした。企業関連資料で、私たちが入手できたもので最良のものは、三重県あるいは四日市市役所に対する提出資料でした。これらが綴じられたものが幸いすべて残っていました.これらを使わせてもらって、各年次ごとで会社側がどれだけ原油を使用したのか、どれだけイオウ分が出ているのか公害防止設備にどれだけ投資しているのか、どういう設備をつくっているのかがわかりました.運動団体関係では、本日ご参加の澤井余志郎氏が集められたり、書かれた資料をかなり使わせていただきました。これらが残っていなければ、もっとしんどいことになったのではないかと思います。公害問題が盛んだった時期、いろいろな機関誌、ビラができましたが、それを発行していた団体が現段階ではほぼ消滅してしまっていて、資料がどこへ行ったかわからない状態になっています.それらを澤井氏がずっと収集されていて、それをもとに市史編さん室の方で目録を作ってもらいました。この目録を私たちは大いに参考にさせていただき、資料を収集することができました.
 労組関係では、コンビナート内労組、教員組合、市職労などがありましたが、これらは比較的集まりやすかったかと思います.
弁護団事務局は、特に裁判関係資料を残しており、非常にきちんとした数字的なもの、論証過程などを知るための参考資料となりました.
 裁判所の方は、所内資料の公開にはかなり難しいところがあり、閲覧はできましたが公開まではできませんでした.勉強にはなりましたが公開できなかったことは残念です.
 新聞記事も大変な件数にのぼりましたが、市史編さん嘱託の一人が元図書館職員であり、その方が中心となってほぼ完全な目録をつくっていただきました.地元紙の伊勢新聞だけでなく、全国紙も含めてすべてカード取りを行い、明治初期から現代まで揃いました.それ以外に、澤井文書などの個人文書、行政文書の目録も整備され、非常に助かりました.
 問題は公害担当だけでも5、6人おり、すべての人が資料をリストアップすると何千点という分量になってしまうことでした.それをどう秩序づけるか、グルーピングするかで、かなりの時間を費やしました.抄録資料は、それだけでは意味がわからないのでなかなか出せません.まとまった形で、当時のある時点の状祝や問題がわかる資料(一応市史は、市民向けということで編さんしていますので)を中心にする以外ありませんでした。そういう意味で新聞資料を多用せざるを得なかった悔いがあります.
 歴史の証として貴重な資料でありながら未公開のものをどうするかについては、今後の四日市市の宿題になるかと思います.特に今回の市史刊行計画の中で入り込む余地がなかった、政府の調査報告書の類や多くの学術団体の調査報告書を集成しておく必要があります.裁判所関係の資料も膨大にありますが、すぐ利用する形では整理されていません.以上のように宿題も多いわけです.たまたま、非常に力量のあるスタッフがいて資料の収集と目録づくりがなされたことは、後世に残る貴重な財産ではないかと考えています。

公害資料の保存・整備の必要性

 最後に、四日市市史編さん事業に関わって自分自身が感じたことを4点あげます。

①公害問題の一般性と地域性
 公害問題は高度経済成長の裏返しとして、日本史の一断面ということで取り扱われる場合がよくあります。ところが、どこでも公害が起こったわけではないということに注意する必要があります。ある地域、例えば四日市市というところにコンビナートができて、それが排出する亜硫酸ガスによって四日市ぜん息が発生したわけです。西淀川の公害は西淀川の地域的条件があって発生したものです。このように非常に地域性のある現象です。この点をしっかり見すえる必要があります。公害をテーマに全国ひとつの資料集成をつくるということではなく、その地域に即した社会経済現象をトータルにつかめるものでなければ、公害発生そのもののメカニズムもその原因究明に関する論拠づけも難しいわけです。私は地域の様々な分野の資料と一体のものとして保存・利用されるべきだと考えます。

②公害は終わったわけではない
 四日市でも公害認定患者の高齢化が進んでいますし、これまで発症しなかった人も新しく発症しています。ところが現在では新規に認定を受けられないという問題が起きています。四日市では今も問題が続いているわけです。これからも、どんなことが起こるかわかりません。様々な環境変化によって患者の症状の現れ方もちがってくる可能性が強い。その意味で過去の資料をしっかり保存しておくことが、今後の公害問題に取り組む上でも重要になるかと思います。

③地球上で2度と同じ誤りを繰り返さないために(四日市での「初期公害」との関係で)
 四日市の戦前史を見ていると、誘致企業による公害が、すでに昭和7~8年から出ていました。私はこれを「初期公害」と呼んでいます。東洋毛糸紡績という塩浜地区に誘致された工場が悪液を垂れ流していました。これによって魚介類が死滅してしまうということが起こって、当時、漁業組合等が猛烈な運動を展開しました。しかし、その解決の仕方が問題でした。市と県と毛糸会社が補償金を積んで、それで一斉に黙ってしまう。当時、石原産業が誘致される時期でしたが、今後石原産業に伴う問題に関しては一切保証を求めないという念書も交わされています。こういう歴史が、昭和36年版の市史には描かれていませんでした。四日市で上のような問題があったことを地元の人々はあまり知られていません。この史実が語り継がれていれば、戦後の四日市公害の展開もまた違っていたのではないかと思うのです。いずれにせよ、歴史を正しく語り継ぐことが重要です。
 他方、私のところに日本の公害問題を勉強したいという留学生がきています。中国をはじめとするアジア諸国は、現在、開発の進展のなかで大変な公害問題に直面しています。彼らは、日本の公害問題と、その解決方法などを学んで帰りたいというまじめな問題意識を持っています。日本の公害資料の保存と研究は、このような世界的な意義もあるのです。

④公害資料の整備体制と公共団体、運動団体、研究者
 公害資料は、放っておいたら分散と喪失を免れないという危険性をはらんでいます。これらを整備するためには、いわゆるNPO、住民団体だけではだめです。公共が何らかの形-市史という形や、資料館をつくるという形等-で支援し、資料を保存する必要があります。その中で運動団体には牽引車となっていただきたいと思います。専門家である研究者の協力を得ながら、3者の役割分担をしっかりとつくっていく必要があると考えます。

 来年の2002年7月24日は、四日市公害訴訟判決から数えて30年の節目の年となります。私たちは、公害資料館の必要性を強く求めてきました。「二度と過ちを起こさないために」被害者側からの視点を大切にし、大気汚染公害の原点である四日市でこそ、公害、環境について考え、発信する場を!と運動を展開しています。  {tab=必要性} 四日市公害資料館の必要性については、だれも否定はしないだろう。もちろん、四日市公害ぜんそく裁判の果たした意義、役割などについて知っている。理解しているということがあってのことだが、裁判を知害資料館の必要性らない、理解していない人でも、「四日市市史」の第15巻、史料編現代Ⅱと、第19巻通史編現代や、四日市市が5月からはじめたホームページ「公害資料館」、あるいは公害市民塾のホームページを見てもらえれば、十分に納得してもらえる。 
 さてそうはいっても今すぐに資料館を建ててくれと言っても無理だろう。かといって、財政事業がよくなるまで、なにもしないで待つというのは後退の思想で進歩がない。いつか実現することを目指して、いまのうちから資料館の構想だけはまとめていくべきだ。

 本格的な資料館構想とは別に、次善の策として、四日市市環境学習センターを、公害歴史学習センターに衣替えする。 四日市市史編さんが今年度で終わる。これまで収集・整理・保存した資(史)料はどこへ行くのか。環境学習センターが保存するといっても、貴重な公害史料は、センターにはなじまない。 環境学習はどこでもできるが、四日市公害歴史学習、公害に関わる人権学習は、四日市でなければできない。どこでもできる環境学習について、四日市に、県立と市立の環境学習センターが2つもいらない。環境学習は、桜地区にある三重県環境学習センターで統合してやればいい。

 四日市市が、HP「公害資料館」の情報発信をはじめた。内容も、これまでにみられなかった充実した内容となっている。「公害市民塾」のHPの経験からいえば、多い日には、1日に1000件のアクセスがあったり、質問、資料提供、あるいは語り部依頼などのメールが送られている。市のHPにも、おそらく、そうしたメールが送られて来るに違いない。そうしたときに、「発信するだけ」では無責任。資料を持つ公害学習センターがそれにこたえていくべきである。
 そうはいっても、市のスタッフだけでは応じきれないので、「語り部ボランティア」グループを設ければいい。語り部ボランティアは、公害問題を経験した、教師、行政職員、工場労働者(いずれも退職者)や、公害患者と家族、といった人に呼びかけて登録してもらう、一般にも呼びかける。

 環境学習センターは4階にあるわけだが、本町プラザの中で、このほかにも公害学習センターとして使える部屋を確保、現在進行形の四日市であり、市史編さん終了後も、資(史)料収集・整理・保存を継続していく。戦後の大気汚染公害についての原点ともなる四日市ぜんそく訴訟は、患者側も、企業側も、各分野にわたっての証拠となるべきものを裁判所側に提出、それらにもとずいての判決文と、大気汚染公害を明らかにする第一級の、いわば宝物が、津地裁四日市支部に永久保存として保管されているので、市立公害学習センターに払い下げをしてもらうよう裁判所に要請する。

 ともあれ、四日市は戦後大気汚染公害原点の地であり、今後とも四日市公害は学び続けられるので、環境省や環境事業団などに、行政として資料館づくりの助成をはたらきかけるべきである。

 伊勢志摩の観光が衰退しているという。1980年代、小、中学校の修学旅行で、「伊勢志摩へ行くのだけれど、同じ三重県の中に四日市があるので、1日、四日市へ寄って公害のことを現地で勉強させたいので世話してほしい、県外の学校から頼まれたことがある。水俣病資料館はいまや修学旅行のメッカとして、多数の来館者があるという。よっかいちも、公害学習の拠点ができれば、伊勢志摩と汲んでの、観光と学習の修学旅行の目玉となるんではなかろうか。三重県とも組んで、そうしたコースをHPで発信すればよい。

{tab=ガス化溶融炉問題から} 宮沢賢治の童話に「狼森と笊森、盗森」がある。これらの森と黒坂森に囲まれた大地に人々がやってきて、四つの森に向かって「ここへ畑起こしてもいいかあ」「家建ててもいいかあ」と叫ぶ。「いいぞう」と四つの森がこたえ、人々は畑を作り、家を建てた。  この童話は、都市計画や、工場・施設などの誘致、建設は、こうでなければならないという心理を語っている。  このように「いいかあ」「いいぞう」という、しごくあたりまえのことがなされていれば、四日市公害はひどくならずにすんだ。

 工場が公害の原因になることを住民に知らせず、排煙によって環境にどのような影響が出るのかを調べないで行政と企業は工場を建てた。被害が出ても、まともに被害者の声を聞こうとしなかった。  四日市公害は、裁判で被害者側(患者、住民)が勝訴することによって、加害者側(工場、行政)は本腰を入れて公害対策に取り組むようになった。市は92年、“二度と公害を起こさない”との「快適環境都市宣言」を行った。
 しかし、公害は亜硫酸ガスだけで起きるものではない。公害の原因になった工場を四日市に造った行政の手法こそが問われなければならない。私たちが提案する「公害歴史資料館」の柱の一つだ。県知事と四日市市長は「生活者起点」「住民の視点」「情報公開」「市民との協働」など、目新しい政策を唱える首長に代わった。しかし現実は、あいもかわらぬ住民軽視の古い体質の行政がまかり通っている。

 昨年くれから問題となっている四日市市小山町のガス化溶融処理施設がそれである。先ず建設ありきで、地元の自治会長に話をする行政はそれをもって同意されたものとして手続きをすすめ、住民の大多数があとになって建設を知り、これはたいへんなことだと騒ぐと、1回、2回と説明会をもつ。あくまで建設が前提で、白紙に戻すことはない。説明会の回を重ねることによって「ご理解いただいた」とし、あとは「反対は一部住民」(行政は、自治会長一人が賛成ならば、あとの99人の住民が反対でも、その地区は賛成と判断する)として、あとは、住民(被害者)代表の入っていない審査会に諮問、ゴーサインで終わり。

  四日市公害の手法が、ここでもくり返されている。“二度と公害のあやまちをくり返さない”との快適環境都市宣言は何だったのかが、厳しく問われなければならない。過ちの歴史を検証する学習の場としての公害歴史資料館は、水俣と並ぶ公害の原点・四日市市に造られてしかるべきものであるとあらためて思う。

{tab=市長へのお願い}  来年の2002年7月24日は、四日市公害訴訟判決から数えて30年の節目の年となります。
 公害訴訟判決によって四日市の公害状況は大きく改善されました。これは、四日市のみにとどまらず、国の公害行政をも前進させることにもなりました。
 四日市は、1965年(昭和40年)の市単独の公害病認定制度発足ということもあり、戦後の大気汚染公害の原点の地となっております。
 そうした四日市公害について、事実を知り、「二度と公害を起こさない」(市の快適環境都市宣言)のために、四日市にも「公害歴史資料館」が是非とも必要であると思います。

  1. 四日市市立・公害歴史資料館をつくってください。
  2. 水俣市にあるような、単独の資料館が望ましいですが、現状では、それは望むべくもないと考えられますので、当面は、既存の市の施設・建物で発足させてください。
  3. 現在、四日市市には、市の「環境学習センター」(本町プラザ4階)と、三重県の「環境学習センター」(市内桜町)の2つがあります。県は、「エコ共和国を目指す」とあり、市は、「紙すきなどリサイクル工作」(環境省・総合環境学習ゾーンモデル事業)とあり、いずれも、公害学習はとりあげられていません。
    水俣では、市内に、市の水俣病資料館と県の環境センターの2つが、いわば、公害と環境を分担しあっています。
    四日市においても、適当な既存の市の施設・建物がないときは、現在の「環境学習センター」を「公害歴史資料館」に転換してください。

 「四日市公害歴史資料館」(本町プラザ内を想定)

  1.  本町プラザ4階の全面使用することと、本年度をもって終わる「四日市市史」の編さん室(6階)を、資料館別室として利用する。
  2. 資料館には、1992年7月に、市と博物館とで、「公害の歴史」展を開催した際に制作した、年表や写真などのパネルを使用するのと、市史編さん室の資料を使用することで、当面の学習は可能だと思われます。
  3. 現在でも、公害関係資料の収集、整理・保存は、なされていかなければならないと思います。したがって、6階の市史編さん室は、重要資(史)料の保存と、新たに出てくる資料の整理・保存の別室として、そのための職員を配置していただきたい。
  4. 昨年、公害学習(社会見学)で、四日市を訪れた小学校5年生は、市内を含め10校ほどあり、本年は既に県外より2校の中学校2年生の来四もあり、総合学習・人権学習ともあいまって年々増える傾向にあり、それらについて、資料館で受け入れるよう配慮してください。
  5. 四日市市はこの5月から、ホームページ「かんきょう四日市」で“公害資料館”の発信をはじめられました。従来、ともすると、公害については及び腰との感をいだかせていたが、このホームページは、充実した内容であると評価しています。それだけに、ブラウン管で流れる資料、ナマの資料を手にとって、じっくりと学習したいと思います。
  6. 四日市公害は風化しています。忘れ去られようとしています。忘れ去ってしまえば「2度と公害を起こさない」は空文になります。
    資料館で「語り部」(無料ボランティア)を募ってください。退職教職員・市職員とか、公害患者と家族、退職コンビナート工場従業員、あるいは公害運動に参加したことのある人、これから関心を持とうという人、などなど、語り部グループを設け、グループでの学習をやりながら、小・中学生や、来四する人たちへの、公害学習ガイドにあたってはと思います。
  7. 四日市公害を忘却の彼方に追いやってはいけないと思いますが、それについては、四日市の教職員・市職員、並びにコンビナート工場従業員は、これが四日市公害だという基本だけは知っておくべきであり、資料館をそうした学習の場として活用すべきだと思います。 「資料館を建てても見に来る人は限られる、いない・・・」といったことを市の担当課が言っておられるが、そうした消極的なことでなく、水俣病資料館は今や修学旅行の定番にもなっているようで、環境学習センターはどこにでもありますが、四日市公害学習のできるとこは「四日市公害歴史資料館」しかないわけで、伊勢志摩への観光客・修学旅行が落ち込んでいるいま、水俣病資料館と並ぶ修学旅行定番の地としての積極性を発揮されてはと思います。
  8. 「資料館を建てても見に来る人は限られる、いない・・・」といったことを市の担当課が言っておられるが、そうした消極的なことでなく、水俣病資料館は今や修学旅行の定番にもなっているようで、環境学習センターはどこにでもありますが、四日市公害学習のできるとこは「四日市公害歴史資料館」しかないわけで、伊勢志摩への観光客・修学旅行が落ち込んでいるいま、水俣病資料館と並ぶ修学旅行定番の地としての積極性を発揮されてはと思います。
  9. 市は、都市計画マスタープラン策定について「四日市市まちづくり市民円卓会議」を設けましたが、そこでの目標として、環境については「公害の歴史を再認識し、地球環境にやさしいまちづくり」を提言しています。
    公害歴史資料館は、公害の歴史を再認識する場を保証・提供することになると思います。
  10. 市政100周年を記念しての「四日市市史」の編さん発行は、予定より遅れたようですが、平成13年度をもって終了するとのことです。
    その市史編さんに当たって集められた史(資)料は膨大なものですが、きちんと整理され、公害関係資料は、全国の大気汚染地区での資料収集・整理・保存の見本となるべきものとなっています。
    それだけに、これらの資料を眠らせてしまうことは大きな損失であり、是非とも、その利用・活用のためにも、資料館を設けていただきたい。
    ISETTは公害防止技術の移転・研究をされていますが、公害被害・歴史の情報発信もなされなければと思います。
  11. 60年代から70年代前半にかけておこなわれ、公害の歴史の中で重く記されている四大公害訴訟の中で、公害資料館が存在しないのは四日市だけになりました。大気汚染公害の原点の地であり、ぜひとも資料館をつくり、津地裁四日市支部に永久保存されているぜんそく訴訟の書類・書証などを備えるべく、裁判所に払い下げを働きかけてください。
  12. 環境学習センターを公害歴史資料館にしていただきたいとのお願いをしていますが、公害資料館になったから従来の環境学習はできないということにはならないし、していくべきだとは思いますが、四日市市内に同じ内容の県の環境学習センターがあるので、役割分担といったことはなされるべきだと思います。    

   参考資料

<熊本水俣病>
水俣市立・水俣病資料館パンフ(等)
・世界の人々に伝えよう 水俣病の教訓
・入館利用状況
・資料館条例
熊本県環境センター
あの“ミナマタ”が環境教育の拠点に「聖教新聞」

<新潟水俣病>
新潟水俣病被災者の会 会報
 新潟水俣病資料館・基本計画まとまる

<富山イタイイタイ病>
イタイイタイ病対策協議会、清流会館しおり
 展示・資料室

<四日市公害>
公害市民塾ホームページへのメールなど
・他県から赴任してきた四日市大学教員より
・一市民の意見
市広報
・まちづくり市民円卓会議の取り組み
 主な論点と目標
 環境・公害の歴史を再認識し、地球環境にやさしいまちづくり
市ホームページ“公害資料館” 「四日市ホームニュース」
環境省 総合環境学習ゾーン モデル事業
 全国84の学習拠点 一覧表

{tab=具体的プラン}

2001年7月24日、公害市民塾と公害を記録する会とで、四日市市長に、「四日市公害資料館について(おねがい)」を提出しました。
 これについて、役所内の関係する部課で検討がなされているようですので、それらの動きや、実現について関心を寄せ、側面的援助をしてくださっている市民の方などのご意見をふまえ、 具体化のための一つのプランを考えてみました。 

四日市公害資料館

  1. 市史編さん室が、収集・整理・保存している資(史)料のうち、公害関係分を、現在ある「市環境学習センター)へ移すという案があるが、現状では、活用されずに置かれているだけ、なくなっていく危険が大きいので、移設はしないことにする。
  2. 現在、整理・保存・収蔵されている、中央緑地内にある、市史編さん分室を「四日市公害資料館」とする。
    分室には、市史編さんにあたってつくられた、膨大な、そして貴重な史(資)料があるので、市史編さん終了後、図書館とか、博物館とかに分散せず、分室を「四日市市歴史資料館」として存続させる。
    したがって、公害と歴史との併設資料館となるが、名称は二本立てとし、現在の分室の入口を入って左側の狭い方の一画を「公害」、右側の広い方を「歴史」資料館とし、中間に、閲覧・研究室を設ける。
  3. 分室は、床下1メートルの校倉造りで、水害や、火災などにも配慮された建物で、資料提供してくださった方々のご厚意にも報えるものと思います。なによりも、心血をそそいで、収集・保存に努め、市史編さんを支えた多くの職員の愛着にも応えるものになると思います。 

四日市公害学習センター

  1. 現在ある「環境学習センター」を、リニューアル(更新、再生・・・)、「四日市公害学習センター」とする。
  2. センターの利用は、小、中学生や、学生、市民一般の人たちが対象となり、学者・研究者と言った人たちは、公害資料館を利用することになると思います。
  3. センターには、四日市公害の歴史を見て、聞いて学ぶといったことで、1996年7月に開催された、市立博物館での企画展「公害の歴史」展のさい制作された【年表と、 四日市公害とは、 公害の歴史、 公害裁判と住民運動、 四日市市の教訓、 環境を考える】といった小テーマのパネルを展示するなどと、市民から提供の資料を活用などする。
  4. 公害学習線ターンリニューアルしたからといって、環境学習はしないではなく、環境学習をしていいわけだが、せっかく四日市市内に、三重県環境学習情報センターがあるので、市と県との役割分担で、県のセンターを利用することが望ましい。
  5. 聞くことの方では、語りべボランティア登録をぜひとも実現し、耳からの学習も重きをおいてほしい。
  6. 70人収容の研修室があり、視聴覚器財もあるので、小・中校生のみならず、教師・自治体職員や工場従業員も、このセンターでの研修をしてほしい。

{tab=四日市歴史(公害を含む)資料館の設置と公開を}

 生活を記録する会と公害市民塾は、7月24日、市長宛、公害資料館の設置と公害学習の場として、本町プラザ4階のある環境学習センターを公害にリニューアル(更新、復興、再生、再開発)してほしいとの(おねがい)をしました。
 その後、『四日市市史』の編さんが来年3月で終了することとなり、市史編さんに関わって収集された、貴重な、膨大な、しかも、きちんと整理され、市資料目録も作成されている(中央緑地内、校倉造りの旧資料館)のをどうするかについて、どうやら、総務部から教育委員会に移管、『四日市市歴史資料館』(仮名)とすることになりそうだとの話を聞き、深く研究する場合、公害だけ別の所に置くよりは、同じところで、公害に関連する政治・経済などの資料も見られるようにした方がいいだろうと、歴史資料館として公開するならば、あえて公害資料館を別につくらなくてもいいのではないかと考えることにしました。

 そうしたことで、歴史資料館をどのように発足させるのか、公開についてどのようにするかなどについて、11月2日、橋詰興隆、沢井余志郎とが、佐々木教育長に確かめるべく会いに行きました。
 「庁内で、どこも引き受け手がないので、教委であずかり、資料は今のままにして、閉めてしまいます」“公開はしないのですか”「そんな予算もありませんので、見せることはしません」“そのことは、固まってしまった(決まってしまった)ことですか”「そうです」

 二の句がうけない、とはこういうときのことをいうんだろうと思いました。市史編さんのために、史資料を提供した人たち、公害でいえば、四日市ぜんそくという、かってない病気について研究された資料など、四日市市民のみならず、国内的、世界的にも貴重な宝である史資料を、遺跡からの発掘品を収納していた旧資料庫に閉じこめ、錠をかけて死蔵するというわけである。そんな恥知らずな、文化都市を目指す四日市に泥を塗るようなことをさせてはならないと思ったが、この場で教育長にあれこれ言う張り合いをなくし、善後策は後で考えることにした。

 この席で、もう一つふれたのは、小学校3,4年生用の「社会科副読本」に、「四日市ぜんそく」とよばれる病気があるのに、公害裁判のことはひとことも書かれてはなく、「国や県や市では公害をなくすためのきまりをつくり、ふせぐための仕事にとりくみました・・・・」とある。
 これについて、「教育委員会は、どんな事実認識、歴史認識をしているんですか。公害裁判をやった、被害者側が勝訴したから、公害をなくすための決まりがつくられ、工場も公害を出さない努力をしました、となったのに、そのことを触れない記述は偏向としかいいようがない」と言ったところ、これから改訂版の印刷にかかるところだから考慮すると、こちらは前向きな応対でした。

 それともう一つは、公害学習について、社会科副読本に、平気で、公害裁判ぬきで公害が改善されたと書くのは、悪意ではなく、判決からでも30年ということで、公害裁判があったことはおぼろげながら知ってはいても、そのなかみは知らない-知らないというのはこわいこと-からで、教師が、四日市公害について基礎知識だけでも知る、学習する場がほしいことと、毎年10月頃になると、小学校5年生(その多くは、市・県外の学校)が、社会科見学(公害学習)で四日市市を訪れるが、四日市には、市の環境学習センターと、県の環境学習センターの2つがあっても、どちらも公害学習をするにふさわしいものではなく、結局、語り部ボランティアをしている、野田・沢井といったところに話がきて、塩浜小学校へ受け入れをお願いすることとなり、塩小に迷惑をかけている。これについても、教委として考えてもらいたいと要望しておいた。
 
  四日市歴史公害資料館 追記
  瓦版48号(上記)に、市教育長の話として、「資史料は公開せず、格納(死蔵)する」ことを書きましたが、11月28日に市教委総務課長、29日に市環境保全課長より、「瓦版48号に書かれているのは正確ではなく、公開することを前提に、予算もあげており、死蔵するということではありません(教育長にはそこまでのことを話していませんでした)市史編さん室でもそのように話していましたので、橋詰さんにこのことを伝え、来年1月末か2月になるであろう予算編成まで静観することにしました。
 小学生などの公害学習についても、なんらかの動きがあるのではないかと思っています。

2001.11.30
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 市民塾が立ち上がったのは、勝訴判決から25年の1997年でした。それ以前にも、公害を記録する会を中心にして、資料館の設置に向けて要望が行われてきました。ことごとく、要望は採用されませんでしたが、新しい市長になってからは、資料館設置に向けて大きく前進してきました。公害を忘れず、教訓を生かすという市民塾が要望してきた内容は一貫しています。そこで、これまで市民塾のHPに掲載された活動や資料を整理し再掲載しました。資料館設置に向けていろいろな意見が出ているようですが、「くさい魚と四日市ぜんそく」をはじめとする四日市公害を被ったという原点を大切にした資料館となってほしいと願います。

資料「四日市公害と行政」より

1992年〔平成4〕
 3月、四日市公害判決20年のこの年、公害訴訟弁護団と公害を記録する会とで、来年開館される市立博物館に、公害訴訟の書証一切を払い下げるよう、市として裁判所へ働きかけてもらったが、加藤市長はストップをかけてしまい、市立博物館での公害展示は今も何もない。
※1993年11月、四日市市立博物館・開館

1995年〔平成7〕
 1月、四日市市環境計画策定について、市民から『公害資料館』の建設と公害学習についての意見書を提出したがとりあげられず。
※1996年8月、市は、本町プラザの建物内に、公害資料館ならぬ『環境学習センター』を開設した。