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公害裁判始まる

 公対協の裁判準備は、1966年(昭和41年)年末には、原告患者は磯津住民で、因果関係が証明しやすい9人の入院患者。被告企業は磯津隣接の第1コンビナート6社との「訴状」が出来上がった。

 その段階で、「自分とこの会社を相手にした裁判支援はできない」と、化学労組、続いて、化学労組が加盟している地区労、労組を基盤にしている社会党、革新議員団がつぎつぎ抜け、共産党が残ったが、単独ではできないと、支援組織がなくなった。

 翌年6月には、二人目の公害患者の自殺があり、四日市市職労や教職員組合が中心になり、全国大会で支援を決議してもらい、資金カンパもしてもらい、9月1日にやっと「訴状」を津地裁四日市支部に提出した。12月1日に第1回口頭弁釦潤かれるようになり、前夜に「四日市公害訴訟を支持する会」を結成した。会則とか、入会ちらしなどは、高校教員と作った。そうした実務は皆さん苦手のようで、黒衣でやった。その後も、支持する会の役員には名を出す事はひかえ、運営委員会にも出席、役員以上のことをやってきた。運営委員会の事項書をつくって出しても、誰も文句は言わなかった。

 公害裁判が始まった頃の地区労事務局長は被告企業の一つ、石原産業労組役員がしていた。私は、裁判がどう進んでいるかなど、傍聴に言って報告するからと、毎回、傍聴に行った。

 こうして、私は支持する会の隠れ事務局員で多忙だった。たまに、明るいうちに家に帰ると、就学前の二人の子どもが「お父さんが帰ってきた」と喜んでくれた。遊んでもらえるからである。そうすると妻は「だれそれちゃんのお父さんは、いつも明るいうちに帰ってくるでしょう。うちのお父さんだけよ、あんたたちが寝てから帰って来て、朝は寝ているうちに出ていくのは…」と言われるのには参った。だから、休みの日には二人を連れて、遊びに行くようにしたが、写真に残っているのは、磯津の堤防でコンビナート工場をバックにしたものとかが多い。そのおかげで、いまも使える公害の記録写真になっていて、四日市市製作の公害ビデオなどに使われもしている。