忘れていけないのは「被害」だけではありません。
1972年7月24日に出された「四日市公害裁判」の判決は、「四大」と謳われるにはそれなりの意義があります。一般的には「6社の共同不法行為」「立地上の問題」「公害防止施設の不備」「原因が大気汚染」等々が骨子ですが、判決直後の被告企業被告企業の誓約書からの「誓約書」により大きな意義を見いだします。その中の次の文言は6社共通のものとして今も有効なのです。
「当社の(略)公害防止設備について、原告ら住民代表及びその指定する科学者に対し、立ち入り検査の原則を認め、その費用は当社において負担」となっています。ちなみに被告6社とは「昭和四日市石油」「三菱油化」「三菱化成」「三菱モンサント化成」「石原産業」「中部電力三重火力発電所」ですが、三菱3社は合併して「三菱化学」となっています。「誓約書」は判決直後の原告側の抗議行動の結果勝ちとったものです。その後この「立ち入り調査」は翌年には実施されましたが10年後に差し押さえは企業が拒否(裁判所に申請して許可)し、それ以降は残念ながら実行されていません。原因はいくつかありますが時間と共に原告-被告の関係が逆転していった象徴です。
さらに右の写真は判決直後賠償金を差し押さえに行った時の光景です。机の上に積まれたのは札束。場所は石原産業。約1億円あります。
「四日市公害を忘れないために」というのは、こうした裁判を中心とした「反公害運動」の総てを含んでのものであると言うことなのです。このような歴史を新しい「公害資料館」がどれだけ表現できるのか、設立者だけでなく総ての市民が考えて行かなければなりません。その意味でも「市民塾」の任務は大きいといえましょう。、