現在、四日市市立博物館では、開館20周年ということで、様々な催し物が行われている。近々リニューアルされることになっているし、新たに公害資料館も設置される。
先日まで行われていたのは、ミニチュア風に写真を撮影する技法を駆使する本城直季氏の「四日市鳥瞰図 しんきろう」であった。「現在の四日市を新しい視点で切り取った本城直季の作品に、今まで見たことのない四日市、今まで気づかなかった四日市を感じることでしょう。」と博物館のHPで紹介されていた。 本城直季氏の写真集がリトルモアから販売されているが、その中に、四日市市博物館の学芸員廣瀬毅氏の言葉が載せられていた。戦後の日本は、大量消費社会を迎え、復興に向けて突っ走ってきた。「四日市は一方では高度経済成長を支える車のエンジンであったが、もう一方で急激な社会変化に対応できないまま突き進んだハンドルのない車でもあった。」とし、四日市公害に関して、「同じ時代を生きた日本人が等しく背負うべき問題であるはず」だったが、「地域的な問題として極小化された」と論じ、「市民の心の奥底には、かつて公害の町と呼ばれたこの町に、未だに心からの愛着と誇りは感じられていないのかもしれない。」と記している。
四日市公害とたたかってきた人からの聞き取りで分かることは、地域的な問題は、四日市の中にも存在していたということである。企業城下町や公害激甚地とそうでない地域の人々の意識や行動の違いから生じたのである。私たち市民が、この問題にもっとしっかりと向き合ってきていれば、四日市という町に、「心から愛着と誇り」を持てていたのではないかと、改めて考えさせられた。
四日市公害資料館の基本構想のなかに、「公害のまちのイメージが克服できていない」とある。何度も出てくるこの言葉は、言葉だけが勝手に一人歩きしている。四日市に住んでいるのに四日市公害を知らない人ばかりである。わからない・知らない・関心がないという「ないイメージ」を克服できるはずがない。克服するためには、四日市公害に関する資料を体系的に整理し、語り部からの学習や現地学習などができるようにしなければならないと思う。何より四日市公害と向き合うことができる仕組みの構築を資料館が核となって行ってほしい。