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働けるときに、働いて

 わしらが病室(塩浜病院)から漁に行ったりするのを、医者や看護婦なんかも、患者が漁に出て行くってなにや、そんなバカなって、大反対やったわ。  その時ねえ、何とかっていう大学の先生がね。普通は体を診てもなっともないじゃないか、異常の人もいるけど、そのほかの人はなっともないんやで、働く意志のある人は働いて、夜になったら病室で休めばいいんやでってね。それと、治るあてもないんやで働けるときに働いて社会復帰をした方がいいって言ってくれていたねえ。

勇気ある判決を

どうも裁判長さん、長い間ご苦労さまでした。
 今まで私らも長い間聞いていますのに、この私らが一体何ゆえにこの病気になったかと・・・・・そういうところに疑問持っておられると思いますけれども・・・・・私らの故郷が、企業が来る以前からこんな病気があったか、なかったか・・・・・1番よくご存じは裁判長さんです。私はそう思ってます。
 それに企業の方は、法律の先生方をようけ連れてきて、そうして、うちじゃない、うちじゃない・・・・・一体磯津へどこの煙がきたというんです。
 今も聞いていますれば、(原告陳述前に、被告企業6社それぞれの最終陳述があった)、うちんとこじゃない、うちんとこじゃない・・・・・と。そうすると、磯津は、地から煙がでてきたんか。あまりにも無責任なやりとりじゃありませんか。
 そうして、企業の方、企業主のその方も、そういう先生たちを頼りにして、自分らのしとることをごまかす。またごまかすような気持ちで・・・・・。
 これで世の中が通っていくと・・・・・そんな甘い考えでおるんですか。決して私は、脅迫じゃありませんけれども、あんたらがそんな甘い考えでおるんなら、あんたら企業とさしちがえましょう。
 そんな気持ちでおる私らの心が、あんたらに、ちょこっとでもわかってもらえたらと・・・・・。無駄な日を費やしたかもしれんけれども、私らの子孫のためと思ってがんばってきた次第でございます。
 そして、4年間という月日の間には、9人居った原告のうち、もはや2人という人が亡くなられました。まだこの上、長いこと引き延ばして、やれ高裁や、やれ最高裁やと、しちめんどうくさい法律上のことにかこつけて、この問題を解決しようとせん・・・・・この問題が解決したあかつきに、私らが生きておられると、そう思ってますか。そんなねえ、なまやさしいね、甘っちょろい考えで、あんたらよう、ほんでも、生きておるなあ。
 私も、愚痴ばかし並べましたけれども、一刻も早く、私らも病気にかかっとる以上、明日もしれんというさみしい気持ちでおるんです。一日も早く、勇気ある判決をいただいて、そうしてみんな仲良う笑って暮らせるような場を作ろうじゃありませんか。
 どうか一つ裁判長さん、よろしくお願いします。

1972年

今日のところは、ありがとう

「裁判には勝ちました。だけれども、これで、公害が亡くなったわけではないので、公害がなくなったときに、わたしはみなさんに『ありがとうございました』という挨拶をさせてもらいます。それまでは、今日のところは、とにかく裁判に勝って、裁判の応援をありがとうございましたという挨拶だけにとどめます。」  

大金を手にはしたけど

 裁判に勝って、わしは1000万円を手にした。大金や。だけど、年々体は弱くなってきたし、発作もひどくなったりで、今も、漁の最盛期だというのに、こうやって病院で寝たっきりで、今日で三日休んどる。わしらと同じ年齢の漁師は、1日3万円ばかりの水揚げをしとるわな。公害がなくなっとれば、わしだって漁にいける。だけど、裁判で勝ったかて公害はかわっとらん。そうするとわしはこの1000万円をくいつぶしていくことになる。反対に、ぜんそくにかかとらん漁師は金がたまっていく。何年かすると、こっちは金はないわ、ぜんそくはなおっとらんわ、ほかの漁師は1000万円たまったわっていうことになる。そう考えてくると、なんかこう、わびしい気になってなあ、やりきれん気になってしょうがないんだわさ。漁師をするのはつらいことやけど、金のあるうちに空気のいいとこで、その金を資本になんとかせんとお先真っ暗だが、そうは思っても、どうにもならんし・・・公害さえなくなってくれりゃそんな心配はいらんのやわさ。
 自主交渉で、磯津の患者や支援団体の衆らがだいぶん勢いがいいし、企業も、へえーてやっとるけど、 今はそうして体をかわしとった方が企業のためにいいで、そうしているだけや。また元の企業の姿に変わるかもしれんし、それも心配でならんのやわさ・・・。

金銭で解決はせん

 裁判で、金銭的な問題が出てきて、金銭で解決したと・・・。ほんとの話、企業というのは金さえ出せば、それでもう解決したんだと考えるから・・・決してね、金銭で解決できんし、このところ、なんら公害はかわっとらんやんか。
 金なんか、働けばね、今の世の中でね、まじめに働いておればね、金なんか必要ないんやもの・・・。
 病院のベッドで寝ていてね、金が山ほど積んであったって、なんとなる。やっぱりねえ、健康でおってこそ金も必要や・・・なんかむなしいなあ・・・。

1972年10月

企業が勝った裁判(判決から三年目)

 そりゃ、あの裁判の時点ではね、勝ったとわしら思ったけれども、だけどもう、賠償金を出したんだから、企業はもうこれであとは知らないんだと、もういいんだと、そういう態度ね。だったらね、結局、今考えればね、どっちが勝ったんだということになるんです。
 まあ、私なりの考えでいわしてもらえばね、この裁判は、で企業が勝った裁判やないかと、今つくづくそういうように思うんですよ。というのはね、人間の命でも金で買えるぞというね、その権力ね、そういう裁判でなかっただろうかと、今あらためて思うんですよ。

1975年7月

磯津漁港で、NHKのインタビューに応えて

 企業はね、金は出したわな、金は出したけどやねえ、ここまでは汚してもよろしいよっていうお墨付きをもろたんやがね。(米本判決に服しますって、判決で出された賠償金を支払った。一方で、亜硫酸ガスの総量規制も、環境基準の数字を達成した)そうしたらね、それさえ守っておれば永久にここで営業しておれるんやんか・・・だから企業は勝ったんやっていうんや。
 それはね、海を汚されてやねえ、生活の糧の魚がおらんようにされてね、体までむしばまれてね・・・なにがしかの金でね、これでおしまいやんかね。
 だから、わしらは裁判で勝ったけれどもね、実質的に負けとるんやんか。その現象は10年たった今もはっきり出てきておる・・・。
 そうでしょう、これだけの船が漁出られやんやんで、あそんどるでしょう。それで、当時、けんかした企業へ頭を下げてね、どうぞ使ってくださいってね、健康な人間ほど、あっこ(企業)の日雇に働きに出とるが・・・だから、見栄えも外聞も捨てて、生活のために、あそこへ頭下げに行っとるが・・・。 
 そうしたら、やっぱり企業が勝ったやろ、おいらは負けた、住民は負けたっていうことやろ。

四日市公害判決10年を考える市民集会の会場で(野田さんにとっての10年というのは、に応えて)

 この10年と言われるとね、私の想像しとった10年はね、あんな立派な判決が出て、そして、確かにあのときはね、10年絶てばおれも健康になって、人様といっしょのように働けるんだと、そうして、よっかいちも美しくなって、四日市だけじゃなくて、世界中がよくなるやろうと、本当によかったなと、俺たちだけの問題じゃなくてよかったと、そういう気持ちでした。
 しかし、10年たってみればね、えろうまだ今のところはっきりしたものが出てこんが、 いったいこりゃどうなっとんのやなと・・・まあそんな状態です。

1982年7月

忘れないように

 原告になるときは、いろいろ迷いがあったり、裁判中は、何かと雑音が入ったりで気が重くなることもあったが、それも、裁判で勝ち、「公害がようなってきたんは、おまんらのおかげや・・・」なんて言われると、裁判やってよかったなあと思った。
 だけど、20年もたつと、公害裁判のことは忘れられ、病院や公害患者の中からでも「裁判って、知らんなあ・・・」といったことを耳にすると、さびしい気がする。
 工場や行政は、裁判までしなければならなかったほど、公害と、患者の苦しみがあったこと、今も続いていることを忘れんようにしてほしいと思う。

1992年7月

「豊かな生活の犠牲・・・」

「私ら、一番よう聞かれるのはねえ、『ぜんそくって、どんな苦しみ?どんなふうに苦しんのや』と、よう聞かれるのやけど、これはねえ、私らね、これぐらい、こうやって、苦しいのやということを説明できんのや。でも、もし、先生方が、子どもにどういうふうに苦しいのかって、それを説明するときにね、こうやって、言うてくれやんかな。」

「というのはねえ、あんたたちね、一般の健康な人たちが、生きていくのにね、あんたら、“死ぬまで、息せんならん”ということ、考えたことある?だれか、ね。息を吸うたり、はいたり、これせんことには、死なんならんのやで。日常生活しとんのに、はあー、すうーと息しとんのに、息せんならんということ、意識したことないわねえ。でも、これ、ぜんそくというものにかかってね、発作が起きたらねえ、私、いっつも、思いようったで。”これ死ぬまで、息せんならんのか、もうええかげんにやめようかな”っと思うほどねえ、つらかった。こういうふうに、子どもに説明できたらと・・・」

「四日市裁判以前に、もし、みなさん方みたいに、関心のある人が四日市におったら、 こんな大きな裁判にならんだかも分からんし、こんな都市にならんだかも分からんわな。」

「私ねえ、ある時ねえ、昭和石油の建設工事にね、漁師の合間に手伝いに行った。四日市が栄えるやろって思って、喜んでね、私ら漁民は、みんな一斉に奉仕に行った。そのときにねえ、ある外国人の技師がねえ、『お前ら、こんなところに、こんな工場たてて、喜んで手伝っとるけど、お前ら、これ、栄えると思とったら、間違いやぞ、四日市は滅びるぞ。』って。何言いやがる。このばかもの。この田舎に大きな工場が来て、ええことやないか。私らは思った。でも、結果はどう?四日市は、早く言えば、滅んだんやな。」

「私ねえ、つくづく思うね。終戦の頃、何にもなくて、かゆばっかすすっとった。現在のようにやれなんだ、ビフテキだと、ぜいたくができるようになったのも、これ、こういうことがあったからかなあ、私ら犠牲になったのかもと思うようになった。」

「子どものための義務・・・」

「確かにねえ。見た目はきれいや。きれいやけどねえ、わたし、これ、50年、漁師しとるけどね、昔とった魚はねえ、立派なぴかぴかしてねえ、本当にきれいな魚やった。でも、今の魚はねえ、科学と何とで、ごっちゃになってね、合成された魚みたいになっとる。だからねえ、身もうまいときとまずいときとある。だからねえ、そんな世の中になっとるからねえ、実際、考えてみると、怖いんじゃないかなあと思うときがある。」

「そいでねえ、伊勢湾の・・・今の状態でね、半分死んどるというのが適当やと思う。というのはねえ、鈴鹿川を境にして北と南に分けると、北の海はねえ・・・ヘドロがたまって、死んどる。人間が生活物資を川に捨てたわねえ、・・・海に流れて、その上で、産卵した魚は、酸素が通らんからみんな死んでしまうと・・・海底調査すると・・・海がくさっとるところはずいぶんあると思う。でも、そんなことを知っとるのは、ごく一部の漁師だけですわなあ。」

「あんたら、水が生き返ったから、きれいな海や、これはもう、伊勢湾が生き返ったと思うわねえ。でもそうじゃない。木曽三川が流れてね、突き当たるところが、中部国際空港や。・・・あの辺はねえ、木曽三川の生水と塩水の境になって本当にきれいな漁場や。今年の4月、あそこで、網引っ張ったんや。10分で動かんようになった。何で、うごかんようになったかというと、海底にねえ、昆布、海草、ワカメがどんと生えてねえ、網が通らんだんや。晩までかかって、やっとの思いで、持って帰ってね、それぐらい大事なとこやけどね、あれもそんな調査はされとらんから、国際空港作ってしまう・・・住民の宝、一つ、減ってしまう。みんな、一生懸命になって阻止したけどね。」

「海の天然資源はねえ。今の状態で動いとんのやけど、そこまで、今、海のこと真剣に考えてくれる人おるかなあ。私ら、もうこれあと、いっかもない命やからなあ、どうなってもええと思えば、それまでやけど。でも、これから、生まれてくる子どもはどうなるんやろう。」

「私ら、子どもの頃ねえ、この鈴鹿川でねえ、エビとカニとか、学校の帰りにつかんで、とって帰って、うちのおっかあに、『今晩のおかずできたぞ。これたいてくれ』って、それをおかずにしてもらって食った。そんな生活をしたこと覚えてんのやからね。これからの子どもにさ、そういう楽しみを与えたるためには、今現在おる人らは、それを守っていく義務があんのやないかなっと、私は、そう思うね。だから、この機会にさ、こういうことにちょっとでも関心持ってくれる人がおったら、私はええかなと思います。」

1999年7月


野田さん逝く

四日市公害裁判原告で語り部の野田之一さんが亡くなりました。

四日市公害を語る上で、とても大きな存在を失いました。ご冥福をお祈りします。

野田さん語録

野田さんの伝えたい思い

市民塾とは

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