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カテゴリ: 記録“伝”澤井余志郎

① 40年という月日をどう感じているか?
 40年前の7月24日は、四日市ぜんそく公害訴訟判決があった。この日、原告患者の野田之一さんは、裁判所前の仮設舞台で「裁判には勝ちましたが、これで公害がなくなるわけではない、なくなったときに「ありがとう」と挨拶させてもらいます」と言いました。そのとき私は裁判所向かい側の市役所の屋上から写真をとっていました。裁判所前ではたくさんの人たちが「ばんざい」を叫んでいました。その場面を写そうとファインダーをのぞいたところ、敗訴した工場群の煙突からは代わることなく亜硫酸ガスを含んだ煙がはき出されいた。四大公害裁判の中で四日市は現在進行形の公害だった。野田さんは、続いて行われた記者会見で、マスコミを代表して質問したNHK名古屋のアナウンサーに「勝訴判決をもらってなにが一番うれしかったか」と聞かれ、「工場はどこもうちじやないと加害を認めなかったが、判決ではっきりと加害者は工場だと言ってくれた、今後は堂々と公害をなくせと言える、それが一番うれしかった」と言った。
 野田さんは「これからが本当の公害反対運動です。」と、万歳を叫ぶ支援者たちにメッセージを発したのですが、万歳で消えていったことで、野田さんたち公害患者の期待におうじられなかった悔しさを引きずって来ています。

② 語りべ活動の今と未来については?
 20年ほど前から、主に市県内外の小学校5年生の社会科で四大公害を学習する単元が出て来ることから、四日市現地へ来て学ぶ学校が年々増えてきて、昨年度では25校ほどあります。そうした学校に頼まれて、原告患者で漁師の野田さん、コンビナートで働いていた山本さんなどと語りべをしています。以前は工業の発達とそのかげでの公害がほとんどでしたが、10年ほど前からは、公害と人権がおおくなっ てきています。私達は教育者ではありませんので、教えるのではなく、学習の参考になる、質問や要望にこたえることにつとめています。そのへんの分をわきまえていかなくてはとつとめています。
 四日市の学校でも、数年前までは、校長や教頭先生は、公害裁判についても「組合の動員で朝早く裁判所で傍聴券確保で並びましたと言っていたが、最近では、裁判以後に教員になったという公害脱世代です。
 四日市公害は、戦後、水俣とならぶ公害原点であり、知らないではすまされない問題です。そうしたなか、公害世代は高齢化していくので、語りべの養成につとめていて、昨年何人かの語りべさんが出てきてくれてよかったと思っている。

③ 資料館についての思いは?
 公害の語りべは、現地で行うのが感覚も含め大事だと思う。そうしたことで、市県外、なかには市内もふくめ、かつての公害激甚校である塩浜小学校での学習が続いている。蛇口40個ついたうがい場での追体験、4階ほどの展望室で、裁判以後、亜硫酸ガス公害は改善してきたが、道路一本へだてて存在するコンビナート工場群を展望室から眺め、安全を願う見学をする。塩浜小学校は、教職員、とりわけ校長、教頭先生は、そうした学校の受け入れに快く引き受けて下さるだけに、迷惑をかけたくないとの思いから公害資料館があればと願ってきました。

④ 40年目をどのような年にしたいか?
 野田さんに「ありがとう」と言ってくれる年にしたい。私の思いは、早くから「野田さんたちが、家族や親せきからも、塩浜地域の人たちからも「三菱などの大企業 に勝てるわけはない、反対や」「地域の恥や」と言われながら、公害をなくしていくためにはこれしかないと、負ければ死ぬことも覚悟のうえでいどんだ裁判に勝って くれたおかげで、工場をして総量規制のために莫大な金を使わせての改善があった わけで、野田さんのありがとうのまえに、こちらから野田さんといまは亡き8人の 原告患者さんたちにありがとうのあいさつをしたい。