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日本科学史学会「四日市公害シンポジウム」での質問に応えて

2012年に三重大学を会場に行われたさいの発言 生きざまをめぐる問い(澤井への質問)
「黒衣に徹する」「被害者の立場に立つ」「記録を残すという運動のしかた」を貫ぬいてこられた澤井氏のものの考え方をはぐくんできた経験をお聞かせください。また、なぜそうしたことが重要と思われているか、今後その「信念」をどのような形で引き継いでいってほしいと思われているかお聞かせ下さい。

◇「黒衣に徹する」
 1967年2月、第一、第二火力発電と石油化学コンビナートの公害(油くさい魚と四日市ぜんそく)対策が進まない中、三重県と四日市市が、第3コンビナート誘致のための霞ヶ浦海面埋め立てを計画し、付近住民が反対のこえをあげた。労組組合員から「今夜ビラまきをするから地区労の仕事が終わったら手伝いに来い」と言われ出かけた。なんのことはない、「今からお前が原稿を書き。ガリキリせい」と、ガリバンー式が置いてあった。やむなく、原稿、ガリ切りして印刷、夜10時ころ、各戸配布した。
 あくる朝、大協石油(コスモ石油)の本部委員長から「組合事務所へ来るように」と電話があり出かけた。委員長の机に、昨夜まいたビラが置いてあった。「このビラはお前が作ったんやな」「そうです」「お前はどこから給料をもらっている」「ここの組合もそうですが、加盟組合の会費からもらっています」「そうだろう、組合は会社が大きくならなければ賃金はあがらない、それを反対すのやったら、うちの組合が地区労を脱退するか、お前が地区労を辞めるか、どっちを選ぶか返答せい」「どっちも返答できるものではないので、そちらで決めて下さい」で引き下がった。組合は地区労脱退を大会を開いて決めた。
 会社や組合の先輩たちが、「地区労の職員が反対のビラまきをしたので、脱退した」と新聞に書かれたら恥を書くのはこっちだ」となり、「いつ脱退するかは執行部が決める」で、脱退はなくなった。
 この年の9月、四日市ぜんそく公害裁判が提起されることがあり、被告6社のうち、4社は地区労、三化協の加盟組合で裁判支援から去って行くこともあり、黒衣でいくしかないと決めた。

◇「被害者の立場にたつ」
 第3コンビ反対も、コスモ石油労組のように加害者の立場に立ってビラ撒きは出来得ないことで、当然の立場である。ただ、その後の学者・政治家などの動きを見ていると、「あれって…」と思わされることがあったりしたが、私には、そうした誘惑の手はなかった。

◇「記録を残すという運動の仕方」
 第3コンビ反対のビラも、推進側にとって好ましくない文面であったのだろうと、組合委員長や労組などの対応をみて、そんな効果があるものかと、自信を得させてもらった。
 ビラには「公害反対」と書くだけではなく、くさい魚、ぜんそくで苦しむ漁師や患者の生活と思いの記録も用いてあり、ビラだけれども、強い力を発揮することを示したことで、こんなビラづくりはやめられんと思った。
 今年の判決40周年に向けて、マスコミはそれぞれ企画物で取り組んでいて、読売新聞は5月に5回「語り継ぐ東海“四日市公害”」を連載した。その中で公害裁判はなくてはならないものだが、9人居た原告患者で存命なのはもと漁師の野田之一さん一人になってしまった。9人の集合写真は、第5回口頭弁論1968年6月25日、この日は珍しく9人が最後まで居てくれた数すくない日で、記者クラブに頼まれ裁判所裏庭の階段に並んでもらった。マスコミ各社それぞれ何枚も写したのに、今となっては、公害を記録する会撮影保存の集合写真が使われている。当時、原告さんたちに頼んで、私もシャッターをきったものだが、ついでにが、今となっては貴重なものになっている。
 このように、ついでも含めて記録した物はいつかは役に立つものであるが、運動の流儀ではともかく黒衣で、住民運動では、助っ人の本分を守るやりかたは、しんどいことであり、すぐに陽の目をみることがないだけに、わたしの流儀はうけつがれることはないだろうと、思う。長年のガリバンきりで、指が変形、鉄筆が握れなくなり、やむなく軽蔑していたパソコンに頼っている。
 だから、こうしたしんどいやり方は受け告げられることなく消えていくしかないだろう。なにより、過去現在の写真を組み合わせてのパワーポイント方式での受け継ぎは容易に出来るだけに、反面物事の本質から離れて行く危惧を感じている。

◇くさい魚、悪臭、ぜんそく被害の出現に気付いていった経緯。
 これらの被害の最盛期は第2コンビナートが操業開始をしだした1963年(昭和38年)夏で、磯津ではくさい魚の原因、生物ゼロの汚水を発電機の冷却水に使い、磯津がわへ流すことに抗議して漁民が排水口封鎖の漁民一揆とがあり、革新陣営の社・共・労が、住民運動に刺激され「四日市公害対策協議会」(公対協)をつくり、集会・行進などの要請をしていた。そうしたなかで、くさい魚などを知った。
 ただ、この時期は1960年4月に万古焼工場争議で逮捕され起訴、津地裁は執行猶予つきの有罪判決。なにもやってないのにと名古屋高裁へ控訴したら「反省の情がないと実刑判決、最高裁却下で1965年1から3月まで津刑務所収監で、大変な年であった。

◇環境再生
 いま、風光明媚な海岸はない、いまのところ望むべくもないありさまである。四日市はいまも伊勢湾に面したまちである。海岸に樹齢何十年の松の木が暴風林を兼ねて、立っているのが普通なのだが、最後の一本も枯れてしまった。
 白砂青松の面影は完全に断たれてしまった。ただ、磯津の僅かに残る砂浜は、枯れ木やゴミの漂着物できたないが、伊賀市などから公害学習で来る小学5年生にとって貴重な海に接する水辺になっている。ここを起点に水辺の復活を願っているが、望み薄である。

◇「わたしにとっての四日市公害裁判とわたしのこだわり(生き方)」
 私の人生83年の半数を、原告患者の野田さん(80)とともに過ごして来たわけで、そうしたいと思ってのことではなかったけれど、そういうことになってきたので、死ぬまでこのこのままで行きたい。


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