印刷
カテゴリ: 記録“伝”澤井余志郎

 公害とは、PPMの数字で表されるものではない。人間破壊であり、自然・環境破壊である。この事実を知る、見る、考える、そして受け継いでいかなければならない歴史の事実である。あやまちを繰り返えしてはならない。
 公害イメージを払拭しなければいけないとしきりに言う人が居る。イメージは、色も、形も、臭いもない、見えないものである、それをどう拭い去るのかわからない。公害裁判を起こした、患者・被害者側が勝訴したことで、やっと公害の改善がすすんだ。ぜんそく発生原因物質の硫黄酸化物は基準以下になってよかった。だが窒素酸化物はそうはいっていない。移動発生源の車排気ガスも加わり、判決以後横ばいで、PM2.5というあらたな汚染物質が問題視されている。

 公害イメージをなくすとして、教科書の改訂を要望している向きがあるが、もともと見えないものを相手にするのではなく、見えるもの、形あるものを相手にしてこそ効果があがる。それには、大気汚染が改善した道筋を、見える、聞こえるもので表示したほうがよい。常設展示場や、読む、語りべに聞く施設(公害学習センターといった施設)が必要である。
 なによりも、現在も公害裁判当時と同じく、四日市は火力発電所と石油化学工場コンビナートは現存している。そこでは、有害なガスと、高圧ガスのパイプが縦横に張りめぐらされ、危険と隣り合わせでいることに変わりは無い。いわば、いまも代わることなくコンビナートは公害発生振である。その発生源は公害裁判判決後、規制基準がきびしくなり、工場はそれを守ることに心がけるようになって、改善がはかられるようになった。なのに、ときどき爆発事故があったり(必要悪か?)、性懲りも無く産廃をにせリサイクルで利益をあげようとする工場や、規制基準を守っているとおもいきや、データ改ざんをしていた天下の三菱化学も内部告発であらわになる醜態をさらしている。公害イメージ払拭などとは言っておられない状況が現存している。

 四日市はコンビナートと運命共同体、なれば、公害発生源が公災害をひきおこすことのないよう、住民と工場と行政はトライアングルの関係を保持し、仲良くなるよりは、お互いが適度の緊張関係を持ち合うことが必要である。情報公開もしなくてはならない。それと、公害裁判の教訓を引き継いでいかなくてはならない。公害裁判世代がいなくなってきた今こそ、学習の場が求められている。この場合、注意しなければならないのは、行政も工場も、一人の自治会長をもって住民とする安易なことはしないようにしなければならない。それと、住民のなかに、公害市民運動団体も忘れてはならないことである。